県政界の再活性化は、明治二十一年の大同団結運動と無神経事件によってもたらされ、県下に多くの政治結社が結成された。特に弘前大同会は、弘前大同派の結社であるとともに、県下の中央組織であった。明治二十一年九月一日に第一回青森県有志大懇談会が開かれ、青森大同会が結成されたが、その中心メンバーは弘前の民権派菊池九郎・榊喜洋芽・村谷有秀・奈良誠之助・石郷岡文吉らであった。東京の大同倶楽部常議員には工藤行幹を選んだ。明治二十三年八月初め社交団体であった弘前大同会は政社となり、九月十五日結党した立憲自由党に加わった。立憲自由党は自由主義を唱え、綱領に、一、皇室の尊栄を保ち民権の拡張を期す、一、内治は干渉の政略を省き、外交は対等の条約を期す、一、代議政体の実を挙げ政党内閣の成立を期すを挙げていた。弘前大同会の事務は関静逸が担当した。
明治二十四年の第一帝国議会に、かねて地租改正によって西日本は高地価による不利益を蒙(こうむ)ったという地主層の不満を受け、高知県の林有造や三重県の天春文衛らによって地価修正案が出された。この修正案では、特に東北地方が不利益になるので、県民は自由党たると改進党たると問わずその不当を鳴らして、各地に協議会を開いて反対運動を展開した。反対運動を東京で展開するのに、青森県から六十余人上京、弘前からは蒲田廣、樋口徳太郎、奈良誠之助、竹内半左衛門、中津軽郡からは柳田治三郎、高杉金作、木村市五郎、村谷有秀らが上京した。この運動は九十余日にして、三月四日衆議院にて修正案を一〇七対一二七で否決して幕を閉じた。同年七月三十日、弘前での自由党総理板垣退助の演説会には聴衆三千人と言われ、弘前地方の政治熱は盛んだった。