ところが黒溝台の戦闘は第三軍司令官乃木希典の指導力不足をはじめ、軍自体の準備不足や作戦ミスなど、支障が大きく、戦闘自体は大変な消耗戦となり、文字どおりの死闘となった。とくに第八師団は死闘を繰り返し、たった五日間の戦闘で戦死者一二五九人、負傷者三八九〇人、生死不明者七〇人など、合計五二一九人の損傷を受けた。損耗率は四〇%に近かった。このほか後備第八旅団が戦闘に五三一一人参加し、戦死者三一五人、負傷者一六二八人、生死不明者三一人、合計一九七四人の損傷を受けていた。こちらも損耗率は四〇%に近い被害である。軍事的には損耗率三割で戦闘力喪失、五割を超えると壊滅といわれている。黒溝台の戦闘によって第八師団は戦闘力を喪失し、あわや壊滅となるところだったのである。
ちなみに黒溝台の会戦全体で日本軍は約五万三八〇〇人が参加し、戦死者一八四八人、負傷者七二四九人、捕虜二二七人、損害合計九三二四人だった。第八師団と後備第八旅団の損耗率は八〇%に近い。つまり黒溝台会戦の被害は、ほとんどが第八師団関係者だったといってよい。当然、この被害情報は新聞などを通じて弘前市民にも伝えられた。郷土師団の活躍を期待して見送った市民は、黒溝台の会戦が天王山となり、そこで郷土師団の将兵たちが活躍することを心待ちにしていた。けれども結果は郷土将兵の数多くを失うという悲劇となってしまったのである。
この戦闘ではロシア軍も大損害をこうむっていた。参加将兵約一〇万五一〇〇人のうち、戦死者六一一人、負傷者八九八九人、失踪者一一〇五人、合計一万一七四三人である。負傷者が多く、失踪者が一〇〇〇人以上出ていることからも、ロシア軍の被害がそれなりに大きく、内部崩壊の状態を見せていたことがわかる。それでも戦死者が少なく、全体の損耗率も一〇%程度であるから、日本軍、とくに第八師団の被害と損耗率がいかに膨大だったかがわかるだろう。
弘前市民にとって黒溝台の死闘は、現実的には相当な痛手だった。出征していた身内や関係者の痛ましい死は、市民にとっても辛い経験となった。けれども日本軍死傷者の大半が第八師団関係者であり、その膨大な犠牲を払った上で勝利を導くことができたことは、弘前市民の誇りになった。黒溝台の会戦が、何よりも劣勢だった日露戦争の戦局を打開し、最終的な勝利のきっかけとなったことで、その印象は強まった。換言すれば第八師団の死闘と犠牲の上に黒溝台会戦の勝利があり、日露戦争を乗り切った印象が全国的にも広まったわけである。
第八師団自体も、死闘を繰り広げ壊滅的な被害を受けた黒溝台の会戦に対し、毎年一月二十八日を「黒溝台会戦記念日」とし、部隊連合の記念演習を実施することにしている。軍隊の記念行事は毎年実施される招魂祭や軍旗祭があった。招魂祭は戦死者を祭ることで国家のために殉死した人々を英雄化し、戦争の記憶を市民に植え付ける上で重要な行事である。軍旗祭も師団管下の各連隊にとって、軍隊と地域の人々を結びつける年中行事だった。これら重要な年中行事に、日露戦争を前後して、新たに「黒溝台会戦記念日」と、その五日前の「雪中行軍記念日」(一月二十三日)が加わった。記念行事が定期的に挙行されるのと併せて、新聞や雑誌、音楽や演劇などで、日露戦争の激戦や悲劇は繰り返し国民の前に披露された。
写真81 歩兵第31連隊軍旗祭
現実的には第八師団の投入やその時期をめぐって、軍当局と現地軍とで作戦上の争いがあった。優勢なロシア軍を前に、第八師団の軍勢を真っ正面から投入した作戦上のまずさも指摘されていた。第八師団にとって黒溝台の会戦は、軍事的には敗北だった。しかし黒溝台の会戦は、結果的にロシア軍退却のきっかけを作り、奉天会戦の前哨戦として戦局を好転させ、日露戦争の勝利を導いた。その結果、壊滅的な打撃と被害のために、かえって日露戦争を果敢に戦った北方師団として、第八師団は「国宝師団」と呼ばれるようになった。第八師団は膨大な被害と引き換えに、大いなる名誉を手に入れたのである。
師団の地元弘前市民にも「国宝師団」を抱える弘前市という印象が広まった。その後の日本は第一次世界大戦、シベリア出兵、満州事変、日中戦争、そして太平洋戦争を経て敗戦し、第八師団自体も壊滅する。けれども弘前市民の心には、第八師団といえば、雪中行軍と黒溝台の会戦という「北の戦い」を成し遂げた「国宝師団」の誇りが強く植え付けられている。第八師団の誇りは、そのまま弘前市民の誇りとして、今もなお引き継がれているように思えてならない。