青森県内では、青森商業会議所が明治二十六年(一八九三)に設立認可されている。弘前市でも、明治二十七年に弘前商業会が総会で商業会議所の設立を議決しているが、実を結ばなかった。明治三十五年(一九〇二)には商業会議所法が制定され、商業会議所の法的基礎が強化された。同法では、商業会議所の事務権限が、商工業の発達を図るに必要なる方策を調査することなどとされ、また、鉱業権者も議員の選挙権を有するとされるなど、広く商工鉱業全般の事項に関与する団体として位置づけられていた。このため弘前市にもその設立の機運が起こり、明治四十年(一九〇七)に設立認可された。初代の会頭は第五十九銀行の頭取であった岩淵惟一、副会頭は呉服太物商の宮川久一郎であった。また、設立時の事務所は第五十九銀行内に置かれた。なお、その後、事務所は津軽産業会館内へ移転し、さらに東長町に移った。また、頭取は、岩淵惟一から宮川久一郎へ、さらに野村忠兵衛へと交代していった。
写真89 弘前商業会議所
商業会議所の活動の一つに時々の経済問題についての意見具申があった。それらは、農商務省や青森県などから意見を求められて回答したものや、商工業者の利害を代弁して自ら見解を表明したものなどがあった。
明治四十二年(一九〇九)には、農商務次官から工場法の原案につき、意見を求められた。これに対し、弘前商業会議所は会頭名で答申を行った。弘前商業会議所の答申がすべて法案に反映されたわけではないが、明治四十四年(一九一一)に公布され、大正五年(一九一六)に施行された工場法は、当初示された原案を修正したものであった。
弘前商業会議所の答申は、冒頭の文章が、「第一 第二条中「工業主は十二歳未満の者を工場に使用することを得す」とあるを「工業主は満十二歳以上にして義務教育を終了せるか若しくは義務教育を猶予又は免除せられたる者にあらされは工場に使用することを得す」に改む」とあり、その説明文で義務教育の重要性を述べ、小学校令との整合性を重視するなど、全般的に労働者の権利重視に力点を置いたものであった。同答申は、工場法が適用される範囲を、原案のものよりも拡大すること、さらに、法律施行の時期を明治四十四年一月とし、公布日と施行日を近づけることを主張している。政府の原案は公布日と施行日の間隔を空け、工場法になじみのない業者に猶予を与えることにしてあり、実際、施行日は大正五年まで延期されたのである。
青森県に対する答申としては、明治四十三年(一九一〇)の斤量一定に関する諮問に関するものがある。これは、明治二十四年(一八九一)制定の度量衡法が一斤=一六〇匁と決めているにもかかわらず、商品取引ごとに一斤の匁量が異なっている現状をどうすべきかという諮問に対する答申である。獣肉取引では一斤=一〇〇匁となっているのは顧客との取引慣行であり、国家権力によらなければ変更は困難であること、ただし、骨付き肉については一斤=一二〇匁となっているのは、正旧取引の斤量と異なり不都合であり、組合のあるものは組合に、組合がないものは業者に勧告すべきであるとしている(資料近・現代1No.四〇五)。
弘前商業会議所の活動の一つに、市内の経済団体や個人に対する表彰があった。まず、あけび蔓細工の製造・販売について、弘盛合資会社が表彰されている。功績状は次のとおりである。
功績状
明治三十年頃ヨリ木通蔓細工品ノ輸出ニ従事シ苦心経営或ハ漂白法ヲ改良シ或ハ各産地ノ状況ヲ視察シ構造意匠ニ改良ヲ加ヘ或ハ工場ヲ社内ニ設ケテ職工ノ養成ニ努メ或ハ競技会ヲ開イテ技術ノ改良ヲ図ル等斯業ニ対スル施設枚挙ニ遑アラス加之内外ノ共進会博覧会ニハ必ス出品シテ常ニ最高ノ賞牌ヲ得其数積テ十有余個ノ多キニ上ル就中日英博覧会ニ於テ名誉大賞牌ヲ得タル如キハ啻ニ同社ノ名誉ナルノミナラス併セテ地方ノ名誉ト云フヘシ其他数百金ヲ投シテ(キヤタロクヲ)製造シ広ク之ヲ海外ニ頒ツタル如キハ本市ノ工業界ニ於テ真ニ空前ノ事ニ属ス亦以テ其用意ノ程ヲ知ルヘシ之ヲ以テ其ノ製品ハ世界ノ注目スル処トナリ欧米ヲ始メトシテ南洋諸嶋ニ至ルマテ販路ヲ拡張シ弘盛合資会社ノ名普ク社会ニ喧伝セラルゝニ至ル其事業界ニ貢献セル効績真ニ偉大ナリト云フヘシ依テ本会ノ決議ニ依リ特ニ其功績ヲ表彰ス
明治四十四年十二月二十四日
弘前商業会議所 会頭 野村忠兵衛
弘盛合資会社殿
明治三十年頃ヨリ木通蔓細工品ノ輸出ニ従事シ苦心経営或ハ漂白法ヲ改良シ或ハ各産地ノ状況ヲ視察シ構造意匠ニ改良ヲ加ヘ或ハ工場ヲ社内ニ設ケテ職工ノ養成ニ努メ或ハ競技会ヲ開イテ技術ノ改良ヲ図ル等斯業ニ対スル施設枚挙ニ遑アラス加之内外ノ共進会博覧会ニハ必ス出品シテ常ニ最高ノ賞牌ヲ得其数積テ十有余個ノ多キニ上ル就中日英博覧会ニ於テ名誉大賞牌ヲ得タル如キハ啻ニ同社ノ名誉ナルノミナラス併セテ地方ノ名誉ト云フヘシ其他数百金ヲ投シテ(キヤタロクヲ)製造シ広ク之ヲ海外ニ頒ツタル如キハ本市ノ工業界ニ於テ真ニ空前ノ事ニ属ス亦以テ其用意ノ程ヲ知ルヘシ之ヲ以テ其ノ製品ハ世界ノ注目スル処トナリ欧米ヲ始メトシテ南洋諸嶋ニ至ルマテ販路ヲ拡張シ弘盛合資会社ノ名普ク社会ニ喧伝セラルゝニ至ル其事業界ニ貢献セル効績真ニ偉大ナリト云フヘシ依テ本会ノ決議ニ依リ特ニ其功績ヲ表彰ス
明治四十四年十二月二十四日
弘前商業会議所 会頭 野村忠兵衛
弘盛合資会社殿
(『弘前商業会議所会報』七)
写真90 あけび蔓細工品工場(弘盛合資会社)
次に、織機の改良に功績があった鹿内豊吉に対する功績状は次のとおりである。
功績状
明治二十八年以来織機ノ改良ニ従事シ刻苦精励夜ヲ日ニ継キ終ニ数種ノ織機ヲ発明シ専売特許ヲ受クル事前後八回ノ多キニ上レリ殊ニ博覧会共進会等ニハ努メテ之ヲ出陳シ尚其子弟ヲ出張セシメテ実地ニ之ヲ使用シ以テ江湖ノ批評ヲ求ムル等奮励至ラサル処ナシ之ヲ以テ各地ノ博覧会共進会等ニ於テ常ニ各種ノ賞牌ヲ得タルノミナラス今ヤ其ノ販路ハ北ハ北海道ヨリ南ハ遠ク関西四国ニ及ヒ鹿内式織機ノ名普ク斯界ニ喧伝セラルゝニ至ル其工業界ニ貢献セル功績真ニ多大ナリト云フヘシ依リテ本所ノ決議ヲ以テ茲ニ其功績ヲ表彰ス
明治四十四年十二月二十四日
弘前商業会議所 会頭 野村忠兵衛
鹿内豊吉殿
明治二十八年以来織機ノ改良ニ従事シ刻苦精励夜ヲ日ニ継キ終ニ数種ノ織機ヲ発明シ専売特許ヲ受クル事前後八回ノ多キニ上レリ殊ニ博覧会共進会等ニハ努メテ之ヲ出陳シ尚其子弟ヲ出張セシメテ実地ニ之ヲ使用シ以テ江湖ノ批評ヲ求ムル等奮励至ラサル処ナシ之ヲ以テ各地ノ博覧会共進会等ニ於テ常ニ各種ノ賞牌ヲ得タルノミナラス今ヤ其ノ販路ハ北ハ北海道ヨリ南ハ遠ク関西四国ニ及ヒ鹿内式織機ノ名普ク斯界ニ喧伝セラルゝニ至ル其工業界ニ貢献セル功績真ニ多大ナリト云フヘシ依リテ本所ノ決議ヲ以テ茲ニ其功績ヲ表彰ス
明治四十四年十二月二十四日
弘前商業会議所 会頭 野村忠兵衛
鹿内豊吉殿
(同前)
写真91 鹿内豊吉と特許証