明治十二年(一八七九)、教育令が制定されたものの、各郡公立中学校の教育課程は著しく程度が低く、中学校とはいえ高等小学校に近いのが実情であった。また、財政難から資金不足に見舞われ、転身を求めざるを得ない状況にあるものもあった。
さらに明治十七年には、文部省は学校の設置基準を厳しくしたため、県は模範となるべき中学校を新設する必要があった。これが青森県中学校で、明治十九年一月十一日、青森新町に新築、開校された。その後、明治十九年、森有禮によって公布された「中学校令」によって、青森県中学校は発足二年足らずで青森県尋常中学校と改称され、学校組織を改め運営されることになったが、これが現在の弘前高等学校の前身である。
明治二十一年(一八八八)十月、文部大臣森有禮が来県し、青森県尋常師範学校及び尋常中学校の授業と校舎を視察したが、尋常中学校の評価はあまり芳しいものではなかったらしい。その年の十二月には関輪正路校長は依願退職となり、この更迭は視察のときの示唆によるものとされた。森は「責任権力ある校長を置く」ことを明言していたが、本県の場合、県の役人をもって兼任させていたにすぎない状態であった。関輪の後を受けて校長事務取扱を命ぜられた脇坂照正もまた県属であったが、翌二十二年四月に至ってようやく帝国大学を卒業した学士校長を得ることになるのである。
森文相の学校視察は厳しいもので、授業中の教師にまで注意を与えたという。しかし、尋常中学校の設置は、森が最大のねらいとしていた「実用に適した人材」や「尋常中学校生徒は社会の上流に至らずとも下流に立つものに非らず」という理念がよく生かされ、その卒業生の多くが官庁に登用されるなど、有為の人材が育成されていく場となった。
明治二十二年(一八八九)五月一日、青森尋常中学校は弘前側の運動によって、青森から弘前市元寺町に移転した。現在の桜大通りの西寄りの一帯に当たる。県の告示第四三号に「弘前市大字元寺町ヘ移転シ本月十日ヨリ授業ス」という、青森県知事鍋島幹の名による通告が五月一日付で出されている。
しかし、尋常中学校弘前移転にはいろいろな背景があった。中学校令では原則として一県一校と定められていたので、増設するとすれば単独で費用を賄わなければならず、県の乏しい財政事情では困難であった。そのため、弘前にも中学校をという要求に対しては、今ある中学校を移転させるという方法しかなく、これを受けて弘前側が考え出した移転理由とは、「弘前は旧城下町であり、学問的環境として最適である」のに対し、「青森は新興商業都市で、土地卑湿、物価が高く、特に海港のため風俗淫猥、飲料水悪く、教育に不適当」というものであった。当然ながら青森側から猛烈な反対の声が上がった。『東奥日報』は連日社説をもって弘前移転の非を鳴らした。
弘前側はこうした世論にも耳をかさず、移転運動を進めた。明治二十年代の県政界は、弘前出身の士族に占められており、その上、森文部大臣が学校視察で来県したとき「青森の尋常中学校を弘前に移転するのは至極適当なりと述べた」と主張して、文部大臣の威光を盾に弘前移転を有利に推進した。中学校の設置は、廃藩以来、沈滞していた弘前の町勢を挽回しようとする手段でもあった。また、二十二年四月には弘前で市制が施行されることになっており、錦上花を添えるためにも譲れない事情があったのである。
明治二十五年六月二十日の夕刻、旧弘前医学校(明治十八年廃止)の建物を試用していた尋常中学校は生徒控所から出火し、校舎を全焼した。隣接の弘前市役所、弘前警察署も焼失してしまった。そのころ在校していた佐藤紅緑が、火事の知らせを聞いていち早く駆けつけ、懸命に消火に当たったという。後日、なかなか殊勝な心掛けと褒められたが、実は学校が焼けてしまえば学校に行かずに済むと火をあおいでいたというエピソードが伝えられている。
尋常中学校の再建についてはいろいろ議論もあった。この際、青森か黒石に設置してはどうかという移転話も再燃したが、十一月の臨時県会で弘前市新寺町の慈雲院の西隣に新築することが決定した。慈雲院は行楽の地としても親しまれ、風光明媚なところであった。ここが今も弘前高等学校の所在地となっている。
明治二十八年(一八九五)三月、県は告示第三三号をもって、これまでの青森県尋常中学校を青森県第一尋常中学校と改称した。これは八戸分校(二十六年九月開校)が独立の尋常中学校となったためにとられた措置で、番号で呼ぶことにしたのである。
第一、第二尋常中学校とも一年級八〇人を募集したが、入学志望者は第一尋常中学校が二五二人、第二尋常中学校が八八人、合計三四〇人の多きを数えた。三十二年四月には、新たな中学校令が定められ、尋常の二字を削除して、それぞれ青森県第一中学校、青森県第二中学校に改称されている。