事実、大正三年一月十三日の『弘前新聞』は「菊池代議士の責任」と題し、菊池武徳代議士が訪問の成田定一という学生に対して、青森県民を懶惰(らんだ)無能なりと痛罵したという話題を取り上げ、それは一時の失言でなく、心中常に郷土を蔑視、郷里に対する一片の愛着の念なく、冷淡酷薄とその心を責めている。この問答は大正二年の飢餓救済の方法論においてなされた。
『弘前新聞』は、さらに、菊池代議士を次のように評している。「我が代議士菊池氏、無論品性の人ではない。当世風の片々たる才子である。口と筆は相当利けるから、偉そうな事を言ったり、書いたりするけれ共、素より東奥男子的の資質あり、重味ある人物ではない、品性は無論問題とするに足らない、彼は一昨年総選挙を弘前に争ふや、苟も男子として恥つ可き行動を敢てした、(中略)爪の垢程も正々堂々たる男らしき所は無い」。
そして、彼のように「好い加減に県民を愚弄せんとするものあらば、代議士であろうが紳士であろうが、容赦する所なく、充分に懲らしめてやらねばならぬではないか」と攻撃する。ここには、大正デモクラシーの旗手として活躍する、津軽には稀有な政治家を育てようとする気持ちは見えない。大先輩の菊池九郎が息子の良一や工藤十三雄に注意しているのは、まさにこの津軽気質だった。
大正四年三月二十五日の第一二回総選挙に青森市から出馬した工藤十三雄は、当選した大坂金助三三七票に対し、わずか六九票の得票で惨敗した。菊池良一は、激戦の弘前市を避けて郡部から出馬したため、親の七光りで三戸郡で大量得点、そして県下万遍なく票を集めて第一位となって当選した。工藤十三雄は以後地元新聞社を経営して地盤をつくり、大正十三年政友本党から弘前で出馬、初当選、以後六回、一八年間にわたって国政に参与した。
一方、菊池武徳は、ともに大隈内閣の与党だった同志会の三上直吉と戦って勝利を得たが、八月、大隈内閣の改造に反対して多くの懇願を無視して幹事を辞任、翌大正五年二月中正会を脱党し、政友会に復帰した。やや軽躁独善的な進退で弘前の人心は離れ、翌年四月の総選挙直前に政友会入りした伊東重に苦杯を喫し、政治生命を失った。大正デモクラシーは弘前では語られることなく、私設知事の綽名(あだな)で地方へ利益誘導をした政友会竹内清明の名のみ高かった。