大凶作下の農村

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大正二年(一九一三)の凶作は、春先から低温多雨が続き、明治以降のものとしては史上希にみる悲惨なものであった。米の収穫高は平年作の約二割程度、畑作の被害も大きく、全農産物の減収による損失は二〇〇〇万円(平年総生産額の三分の二)に上った。このころ、中津軽郡りんご栽培面積も増加し、総反別の三分の一を占めるようになり、また、弘前市及び師団の所在地であったため消費人口が多く、蔬(そ)菜の栽培面積も大きかった。しかし、りんご、蔬菜もこの年は例年の価格の半分程度であり、そのため、農家をはじめ多数の窮民が生み出された。
 県や市は、凶作救済策として、郡債と県補助金により土木工事を中心に道路の砂利敷、川底の浚渫(しゅんせつ)、川筋の変更、道路の改修などを行い、凶作窮民を雇用する救済事業を行った。また、副業として藁工品、竹細工、養蚕が奨励されたが、いずれも価格が下落し、農家経済を救うには至らなかった。出稼ぎも急増し、凶作窮民の食糧は悲惨を極め、玄米、南瓜(かぼちゃ)、馬鈴薯(ばれいしょ)、大根の乾菜に塩を混ぜ合わせたお粥(かゆ)を日常食とせざるを得ないこともあった(「青森県中津軽郡凶作に関する概況」、資料近・現代1No.六〇七)。

写真170 窮民救済事業団によるりんご販売
(大正2年~3年)

 例えば、高杉村糠坪(現弘前市)では、当時、戸数四八戸のうち、自作農三戸、自作兼小作六戸、小作二四戸、日雇一五戸の農家が居住し、五七町歩の水田面積があるものの、地域内住民の土地所有はわずかに一〇町歩で、他は集落外の所有者のものであった。この地域は水害及び干害に頻繁に悩まされ、土地の売却をせざるを得ない者も多く、小作農が増加していた。大正二年の凶作時、その被害は激甚を極め、集落の男性は北海道などへの出稼ぎを余儀なくされたほか、ようやく義捐(ぎえん)金によって飢餓を免れるという状態であった(「凶作の状況と対応」、資料近・現代1No.六〇八)。
 また、窮民救済のため河川の砂利採取などの土木事業が冬季間に行われたが、学校を終えてから、少年たちが雪混じりの冷たい河川に入って「父兄」の手伝いをする、見るに忍びない姿も見られた(「小学校訓導が見た凶作の状況」、資料近・現代1No.六一一)。
 中津軽郡長は児童教育の財政的困難に際し、各村長に「町村費の大部分を占めるのは教育費となっているが、義務教育の町村負担は現行制度上やむを得ない」として、「貧困児童学用品ノ補助」などの予算計上を「内訓」として発している(「中津軽郡長の凶作に関する内訓」、資料近・現代1No.六一二)。