大正期のりんご流通

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大正三年(一九一四)八月に勃発した第一次世界大戦は、日本経済に好況をもたらし、その中で「りんご成金」が生まれるほどにりんご価格も上昇した。津軽地域において、大きな打撃を受けた大正二年(一九一三)の大凶作も、比較的早く回復できたのはりんごの価格上昇があったからである。こうしたことから消費地の問屋や小商人がこぞってりんごに目をつけ、産地に買い付けにきたが、悪徳商人による不正取引も横行した。一方、産地では、いわゆる移出業界が形成された。その要因は、①生産量の増加、②鉄道の開通、③貯蔵性の高さを要因とする投機的果実、そして、④りんご農家の経営規模の縮小による販売ルートの確保である。
 しかし、大戦景気大正九年(一九二〇)の不況をもって終息した。大戦景気の中で生産者が得た教訓は、悪徳商人からの自衛と、中間マージンの取り戻しであった。少数の大経営者を除けば、集約的経営方針をとったりんご生産者が自己出荷できる道は限定されていた。りんご生産者がとるべき手段は、農民共同組織の結成であったが、農民的りんご販売に精力を注いでいた産業組合清水村林檎生産販売購買組合や竹舘林檎購買販売組合(現平賀町)など一部の組合であり、他は水田地主層による米主体の組合が主なものであった。
 そのため大正十一年(一九二二)から十二年にかけて、法制に準拠せず公認を得ない出荷組合の結成が相次いだほか、産業組合のりんご取り扱いの整備、りんご移出業者の進出もあり、りんご販売体制の改善整備が重要課題となった。産業組合出荷組合、移出業者の三者の間で、包装・荷造りの改善と規格の統一・簡素化に関する調整が行われたが、りんご販売を重点とする産業組合の力が一部を除いて弱体であったこともあり、根本的改善には至らなかった。
 青森県産りんごの海外輸出の先駆けは、明治二十七年(一八九四)、函館港から中国(当時は清朝)へ向けて行われたものだが、弘前では、青果商から身を興した皆川藤吉(みながわとうきち)の上海開拓(明治三十二、三年から)、試植士族中畑清八郎の長男巽(たつみ)の香港輸出(明治四十四年)が知られている。ほとんどの輸出はきわめて不安定な事業であったが、皆川藤吉上海に設立した貿易会社「皆川洋行」は、比較的安定的かつ長期的な営業に成功した稀有(けう)な例である。皆川は、同三十二、三年の上海調査兼販売を皮切りに、同三十六年のウラジオストク調査兼輸出、同四十四年のシンガポール市況調査、大正二年から三年の香港ハワイ輸出など、精力的に調査・販売を行った。また、大正元年(一九一二)には、県から販路拡張費補助規定に基づいて二〇〇円の交付を受けている。こうした積極的な対応が、皆川洋行の成功に結びついた。

写真175 津軽林檎輸出問屋皆川商店のりんご荷積み風景(明治38年)

 りんご生産量が着々と伸びるなか、明治三十九年(一九〇六)、青森港が特別輸出港に指定され、ウラジオストク輸出が可能となったことを受けて「津軽林檎輸出業組合」が設立、皆川藤吉が会長に就任した。