大正二年の大凶作は天明の飢饉に次ぐものといわれ、青森県下産米の実収は平年作の二分一厘八毛、畑作は七分五厘、その損害一五〇〇万円以上に達した。県内で収穫が一分以下の町村が二五、皆無の町村は一〇に及び、その惨状は言語に絶するものがあった。
この凶作の影響は弘前にも及んで、『朝陽小学校沿革誌』大正三年一月に「昨年気候不順にて凶作不況、窮乏児童の状況左の如し。イ、常欠席児童 三七名、ロ、学用品給与者 五三名、ハ、被服に困難の者 四名、ニ、内職手助の者 七七名(男二四、女五三)、(内職種別、マニラ麻糸継ぎ、レース糸編物、木綿糸繰、其他)、ホ、行商に出づる者 八名」と述べており、市内各小学校も大体似たようなものであった。
中津軽郡和徳村(現和徳小学校学区一部、城東小学校学区、時敏小学校学区一部にわたる地域)では、大凶作の実態とその反省を小冊子にまとめているが、それによると大凶作は典型的な冷害によるものであることがわかる。小冊子から一文を抜粋する。「小学校デハ腹が空ルカラトイフテ生徒ノ体操ヲヤスンダ。二尺位ノ藁デ馬鹿ニ高イ値ヲイフタ。折角ノ副業ノ藁細工モホトンド絶望ノ有様、ソレニ北海道ノヤトヒガ途方モナク下落シテ大ノ男が十五円デ売ラレタ。外国米屋ガ自動車ヲ買ヒ込ンダ。地主ト小作人ノ談判ガソチコチニ始マッタ。藁餅ヤ乾菜(ほしな)ナドト旧式ナ方法デ凶作ヲシノイダモノモアッタ。人トアヘバ凶作ノ噂サデモチキッタ。アレデヨク死人ガ出来ナカッタモノダト老人ガ感心シテヰタ。」
県内でも比較的損害が軽微といわれた中津軽郡でさえ、凶作は農民をこのような窮乏に追い込んだのである。この大凶作で、本県内では児童の退学や不就学が続出し、せっかく隆盛の一途をたどりつつあった本県小学校教育を、一時的に後退させたほどであった。