大正十一年(一九二二)、全国的な野球流行の中で、弘前市にも大日本少年野球協会弘前支部が結成され、事務所は土手町今泉運動具店内に置かれた。名誉会長は石郷岡文吉弘前市長、副会長は外崎日出城城西小学校長、事務局長は今泉運動具店の原田健蔵が就任した。
当時の少年野球大会はA組とB組に分かれていたが、A組は高等小学校生徒と中等学校二学年以下の生徒対象の試合で、B組は尋常小学校児童の試合となっていた。
大日本少年野球協会弘前支部主催の第一回大会は十一年十月二日から五日間にわたって、第二大成小学校校庭を会場に開催された。本市最初の少年野球大会の第一日目はあいにくの雨で順延、十月三日から開催された。参加校は予報より一校多く(A組に弘前中学校一年生が参加)、A組四校、B組七校の計一一校。同日午後二時、参加各校の選手はユニホーム姿で入場整列した。高等小学校神英造訓導が開会を宣し、石郷岡会長は公務のため欠席したので外崎日出城副会長が登壇、弘前少年野球協会設立の趣旨と選手に対する訓示を行い、直ちに始球式に移った。始球式後、和徳校対第二大成校の試合開始。熱戦の結果、一七対一三のスコアで第二大成校が勝利を収めた。
翌四日は、朝陽対時敏、城西対富田(清水村富田小学校)の二試合が行われたが、少年野球の人気ものすごく、会場の第二大成小学校校庭は試合開始前から満員の盛況であった。
第一試合の時敏対朝陽戦は時敏校の猛打炸烈、三回に一挙一二点をもぎ取り、二〇対二のスコアで時敏校三回没収の勝利であった。第二試合の城西対富田は両軍の技量伯仲、ことに富田校は最終回一点差に追い上げたが、城西校よく防いで七対六のスコアで城西校が勝利を得た。
第二勝戦(準決勝)二試合は、第一大成校が投手久野の投打にわたる活躍によって第二大成校を退け、いち早く決勝進出を決め、第二試合は時敏校と城西校によって争われた。この試合は十月十一日に行われたが、時敏無得点、城西一点の三回に至って雨となり、翌十二日午後二時より四回から再開始された。両校死力を尽くしての接戦となったが、地力に勝る城西が時敏の反撃を三点に食い止め、五対三で勝利を得た。
決勝戦は、十三日午後二時半から第二大成小学校校庭において、第一大成小学校と城西小学校によって争われた。戦いは第一大成先攻で開始されたが、第一大成二回に三点、四回に六点、七回に二点を入れ、城西三回に一点、六回に一点、七回に二点入れるも、一一対四で第一大成小学校の勝利。試合のスコアを見ると両軍合わせて盗塁二九、城西の三振一二、また、城西が無安打で四点入れていることなどから、当時の少年野球は技術的にかなり未熟だったことが察知される。