昭和戦前・戦中期の政治・行政を見る場合、軍との関係を無視することはできない。近年、地域と軍隊の関係を明らかにする研究が進んでいる。いずれの研究も軍隊が地域に及ぼした影響力の巨大さを解明しており、地域にとって軍隊がいかに密接なつながりをもっていたかを物語っている。
第八師団を抱える弘前市については、とくにそうだった。第八師団は青森、岩手、秋田、山形を管轄し、仙台に拠点をもつ第二師団とともに、東北師団として巨大な施設を擁していた。有名な雪中行軍の悲劇を経験した第五連隊と第三一連隊を管下に置き、日露戦争での活躍ぶりから「国宝師団」とも呼ばれていた。当然、弘前市民も寒さに強い北の師団である「国宝師団」を誇り高く思っていたのである。
昭和期になってから師団長に赴任したのは、二・二六事件の黒幕の一人としても有名な真崎甚三郎だった。真崎は就任に当たって『弘前新聞』の記者に「地方と軍隊との関係に就いては益々其親密の度を進めたいと思って居ります」と語っている。真崎の言葉は、軍隊にとって地域とのつながりが、いかに重要なのかを物語っていよう。しかしそれは大正期の軍縮時代に、軍隊が地域から疎まれていたことの裏返しでもあった。軍縮時代に軍当局は冷遇されている軍隊の必要性を訴え、対応に苦慮していた。軍縮時代は軍服を着ているのさえ憚(はばか)られる時代時代だった。ところが第八師団のお膝元である弘前市は、まだ軍縮時代の名残が強い満州事変以前の時期でも、郷土軍を誇りに思う土壌が育っていた。真崎は弘前着任のとき「師団管内へ入りますと何処でも皆地方の有志や在郷軍人諸君は、降雨にも拘らず駅へ出て迎へて呉」れて「全く地方民の純朴さが如実に現れて居て非常に嬉しく感じられました」と語っている。
もちろん真崎の言動は、師団長の歓迎というセレモニー的な要素の上での見解だったことも考慮しなければならない。師団長の地位は今日我々が想像する以上に高かったからである。日中戦争以降、師団が大増設されるまで、陸軍部内でも師団長は天皇に直隷し陸軍次官や参謀次長より上位とされていた。師団は全国を十いくつかの地域に分けて管轄していたので、その管轄領域は府県の境をはるかに超える広大なものだった。師団長の就任に地元の有力者をはじめ、人々が大勢歓迎するのは当然だった。師団司令部が置かれ、師団長を地元に迎える弘前市民にとって、軍隊との関係は他地域よりも密接であったろうし、それだけ市民の誇りでもあった。だからこそ管下の第三一連隊が岩手県の盛岡市に移転するのではないかという話が持ち上がった際、市民は反対運動に立ち上がったのである。