空襲を受けなかった弘前市

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昭和十九年(一九四四)三月三十日、弘前市会は公共用防空壕の構築工事に関する議案を可決した。一般公共用の二〇人用防空壕が一一〇ヵ所、市役所用の二〇人用防空壕が二ヵ所、図書館用の八人用防空壕が一ヵ所、もっとも多く作られたのが国民学校用の防空壕で、市内で二〇人用の防空壕が八四個も作られた。その内訳は、時敏校が一〇個、朝陽校が一五個、城西校が一〇個、第二大成校が一七個、第一大成校が一八個、和徳校が一四個だった。そのほかに市立商業学校で二〇人用防空壕が一一個で、都合弘前市内に二〇八ヵ所の防空壕が作られることになった。弘前駅周辺や土手町、親方町など市の中心部にも防空壕は多数作られたが、国民学校に数多くの防空壕が作られたのは、児童・学童を守るためである。
 弘前市は結果的に見れば空襲を受けなかったため、防空壕は空襲警報時に使用されたにすぎなかった。だが青森市は七月二十八日の大空襲で市内全域を爆撃され、市街地はほぼ全域が焦土となった。多くの死傷者が出たが、その大半は防空壕に避難していた人々だった。焼夷弾が防空壕のなかにいた人々を焼き尽くしたり、窒息死させたのである。防空壕は一体何のためにあったのだろうか。
 防空壕を作ることだけが防空対策ではなかった。県は昭和二十年七月、青森・弘前・八戸各市と田名部・大湊の両町に対し、児童の疎開を実施するよう通達した。疎開というと東京など大都市周辺の児童が農村地域に疎開するイメージが強い。東京都の児童が、青森県にも多数疎開してきたのは事実である。けれども地方各都市が空襲対象となり、実際に壊滅させられている都市が存在する以上、青森・弘前・八戸など、県内の都市部といわれる地域の児童を疎開させることは必至の状況となった。
 児童疎開のほかにも文化財疎開がある。昭和十七年十月二十二日、県学務部は国宝史蹟の防護対策を通達した。国宝、重要美術品、史蹟などが疎開対象となった。弘前市内の貴重な文化遺産で移転可能なものは移転する措置がとられた。特筆されるのは昭和二十年八月九日、弘前市立図書館で保存してきた『藩日記』など、郷土の歴史資料を公園内の天守閣へ疎開させたことである。美術品や芸術品だけでなく、郷土の歴史資料も文化遺産として扱われていたのは、たいへん意義深いことであろう。
 このほかに建物疎開も実施された。青森県では青森市が真っ先に市街地の建物疎開をしている。建物疎開とは空襲対象となるような建築物を取り壊し、道路・水路などを確保することである。七月六日、建物疎開を実施した青森市に倣う形で、県は弘前市と八戸市にも建物疎開を告示した。八月六日までに対象となった民家は立ち退きを迫られた。弘前市は駅周辺、八戸市は駅前と電話局周辺などだった。弘前市では七四世帯、二二七人が疎開の対象となり、立退きは七月十五日から開始され、二十七日に終わった。
 アメリカ軍のB29は全国各地を猛攻撃し、八月六日と九日には広島・長崎に原子爆弾を投下した。七月十四日から十五日にかけて、アメリカ軍は青森、八戸、三沢の陸海航空施設を襲撃し、青函連絡船を全滅させた。二十八日には青森市の市街地を空襲し、弘前市当局を驚愕させた。そのため八月十三日、弘前市では第二次建物疎開の計画を発表した。土淵川両岸の民家を除去して水利をよくし、市街地の各要所に五〇-七〇メートル幅の避難通路を設定、重要建造物の周辺三〇メートル内外の建物を除去するというのである。そのほかにも鍛冶町、桶屋町の家屋を除去し、一番町両側、親方町の大部分を除却、警察署・市役所庁舎から公園堀端の家屋を除却するなど、七〇〇戸近い家屋が疎開対象となった。市街地の破滅計画に等しい計画だった。
 しかし建物疎開の計画が発表され、まさに実施する直前の八月十五日、弘前市民は昭和天皇の「玉音放送」を聞くことになった。弘前市民にとっても、まさかの敗戦であった。戦争の終結に伴い、県当局は十五日の午後、弘前市の第二次建物疎開を中止するよう指示した。
 弘前市では、すでに第一次建物疎開で駅周辺の建物が一部壊されていた。空襲を受けなかった弘前市だが、第二次建物疎開の計画発表を受けて、建物を破壊してしまった市民もなかにはあり、また、建物を取り壊し中だった者もいた。七月二十八日の青森大空襲に関する情報が弘前市民にもある程度浸透していたのかもしれない。もし敗戦がもう少し遅れていたら、弘前市は空襲に遭っていたか、遭っていなくても市内中心部の建物の大半が取り壊されていた可能性が強い。弘前市は単に原爆や空襲がなかっただけでなく、建物疎開が一部しか行われなかったことで、戦前の街並みが残されたといえるだろう。