敗戦後、解散・解体されたのは軍事施設だけではなかった。日本の非軍事化と民主化を促進しようとしていたGHQは、教育や宗教に対しても民主化を進める指令を発した。教育制度の民主化に対しては、軍国主義や極端な国家主義思想を払拭する指令が矢継ぎ早に発令されている(当時、教育に対する「四大指令」と呼ばれていた)。有名な墨塗り教科書も、この指令を受けて実施された。戦時中に自由主義的とされてきた教員や学者が復帰し、逆に軍国主義的、国家主義的思想をもつ教員や学者は追放された。
教育や宗教の民主化は国家神道に大きな打撃を与えた。すでにGHQは昭和二十年(一九四五)十月四日に「政治的・民事的・宗教的自由に対する制限撤廃の覚書」(通称「人権指令」と呼ばれる)を発令し、国民に宗教的自由を認めていた。さらに十二月十五日に発令された「国家神道(神社神道)に対する政府の保証、支援・保全、監督、弘布の廃止に関する覚書」(通称「神道指令」)は、国民の精神的・宗教的支柱に直接的な影響力を与える指令となった。
「神道指令」は弘前市でも昭和二十一年一月十三日に通達されている。二月二十日には実施要領も通達され、伊勢神宮や明治神宮への遙拝が禁じられた。氏神などへの団体参拝や団体奉仕も禁止され、公共団体構内での神道儀礼も廃止された。要領の内容は市民の具体的な宗教生活を根本的に改めるものだった。けれども皇居への遙拝は禁止対象ではなく、「御真影」を安置した奉安殿を撤去するものでもなかった。皇室自体は国家神道の範疇に属する特質をもっていたのだが、弘前市の実施要領を見る限り、皇室批判の内容は盛り込まれていない。なお、弘前市が実施要領を市内関係機関へ通知する前の一月三日、和徳村ではすでに役場の神棚の廃止を決定している。そして六日には村役場で神棚奉遷の儀式を行うため、関係者に参列願を通達している。
「神道指令」は単に宗教の精神面に影響を与えただけではなかった。神社関係の経費を町内会や隣組などが集金したり、拠出金を割り当てたりすることが禁止された。町内会、部落会などの経費から祭典費や寄付金を支出したり、神符・守札・形代などを頒布することも禁じられた。「神道指令」は宗教活動の経営面をも左右する影響力をもっていたのである。
戦前・戦中、とくに戦時体制下で国家神道による精神主義をたたき込まれた人々にとって、敗戦の現実は裏切られた感情でいっぱいだったに違いない。そのため敗戦後、神道を中心に宗教へ対する反動が現れていた。進駐軍の膨大な食糧や物資、経済力を見て、科学の必要性と振興を希求した人々も多かった。それがよりいっそう精神主義的な思想や宗教に対する反発を助長したのであろう。逆に、宗教界に携わる人々は、国民が精神主義を否定し、科学の振興を強調することに批判的だった。彼らの多くは敗戦の理由を国民全体の道義退廃に求め、敗戦で国民の精神思想が弛緩したと嘆いていたのである。敗戦の現実と悲惨な生活のため、国民の宗教や精神主義に対する考え方は大きく変わってしまったといえよう(詳細は、中園裕「敗戦前後の世相と民心の動向」『弘前大学国史研究』第一〇八号、二〇〇〇年三月を参照)。
しかしその一方で市民が宗教的考え方からまったく脱却し、それを批判的にとらえていたかというと、そうではなかった。人々の生活スタイルは、そうそう簡単には変わらない。実際に弘前市の場合でも、宗教は市民の精神的支柱であり、個人や町内会などの神社に対する支援は、すぐには消えなかった。神社の奉納金、祭典費などに関して町内会や隣組などが集金したり、町内会・部落会の経費から祭典費や寄付金を支出することも多かったという。そのため市当局は昭和二十一年九月四日付で、当該行為を禁止させるよう各神社宮司宛に通達している。
神風を信じ、勝利を信じ込まされてきた人々にとって、空襲・敗戦・占領と、眼前で展開された光景は、まさに信じられないような思いだったろう。戦争をめぐる人々の感情は、空襲経験の有無に大きく影響される。空襲は多数の尊い人命を奪い、家屋や財産を倒壊・焼尽し、街を焦土と化す。戦争被害の最たるものである。そのため宗教的行為による勝利を信じ、信じ込まされた人々ほど、眼前に繰り広げられた悲惨な光景が、宗教に対する信用を失わせたのだろう。
だが空襲を経験しない地域であれば、人々の信仰心や慣例なども、空襲被害地とは異なる傾向を見せるのではないだろうか。神道行事が人々の通過儀礼に一定の範囲でしみ込んでいたことも大きい。そのためGHQの指令を受けて、弘前市当局は昭和二十二年一月二十七日、あらためて各町会長宛に、町内会や隣組などの神道に対する後援や支持を禁止する通牒を発令したわけである。