子ども会の動向

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終戦直後における弘前市の子ども会は、その結成の経緯からみて、三種類に分類できる。
(一) 市内小学校の教師らの指導によって結成された児童文化団体「弘前子ども会」。これは音楽、舞踊、演劇活動を中心としたもので、昭和二十一年五月、市内国民学校の教員千葉寿雄第一大成国民学校)、小島正雄第一大成国民学校)、伊藤秀俊(青森師範学校女子部附属国民学校)、佐藤徳男(元国民学校教員)らの発意で発足した。当時指導に当たった千葉は「敗戦後の沈滞した子どもらの心に明るい風をおくり、希望を与えようという主旨から結成した。参加した子どもは男女あわせて一〇〇名を超えていた。子ども会には演劇音楽、舞踊の三部門があり、演劇部は島村喜美和徳国民学校)と千葉が担当し、音楽部は小島正雄伊藤秀俊、舞踊部は佐藤徳男田中志摩子(田中舞踊研究所)がそれぞれ指導に当たり、第一回の発表は、その年の夏休み(八月十八日)に青森師範学校附属国民学校講堂(在府町の旧朝陽国民学校、現弘大医学部敷地)で開催した」と語っている。こうして弘前子ども会は本格的な活動を始めることになり、それが一〇年以上も続いた。毎年の定期発表会(翌年から元寺町の弘前東宝劇場を使用)のほかNHKのラジオ番組に出演し、また、夏休みや冬休みには県内各地の小学校を巡回して親善公演を行うなど、その活動は極めて活発であった。

写真146 弘前子ども会第1回発表会(昭和21年)

 (二) 社会人や大学生からなる有志(ボランティアリーダー)たちによって結成された巡回子ども会緑陰子ども会。これは二十一年から二十二年にかけて結成されたもので、茂森町の「鳳鷹会」(代表蝦名良逸)、南横町の「南友会」(代表小野俊夫)、駒越町の「駒越少年会」(代表佐藤逸郎)、馬屋町の「子ども会」(代表神源蔵)などである。「鳳鷹会」は長年戦争で中止となっていた林間学校を長勝寺で開催、期間中約一〇〇〇人の児童・生徒が参加、これにより弘前市から異例の奨学金(三〇〇円)が贈られた。ほかの子ども会においても、夏季林間学校の開設や紙芝居大会など「鳳鷹会」子ども会と同じような活動が行われた。
 (三) 市内各町内の児童福祉協力会の援助によって組織された「町内子ども会」。これは昭和二十三年ごろから児童委員や民生委員児童福祉協力会を作り、青少年の健全育成を目指して、町内単位に子ども会を設置させたもので、昭和二十五年現在で市内に一八の児童福祉協力会がある。左に列挙する。
紺屋町 桶屋町 下土手町 南横町 笹森町 浜の町 和徳町 馬屋町 鍛冶町 新鍛冶町 銅屋町 南川端町 本町 亀甲町 田茂木町 仲町 下元寺町 百石町

 このように弘前市における子ども会は、二十一年から二十四年にかけて小学校教師らによる児童文化団体「弘前子ども会」、ボランティアリーダーたちによる「巡回子ども会」、児童福祉協力会による「町内子ども会」が誕生して独自の活動をし、二十五年春には、弘前地区JRC(赤十字少年団)やボーイスカウト・ガールスカウトが誕生し、活発な動きを見せるのである。