観光協会をめぐる紛糾

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昭和二十五年に設立された弘前観光協会は、活動が期待されていたのにもかかわらず、その計画に見合った活動ができなかった。観光の必要性を痛感しながらも具体的な活動自体が展開されずにいたのである。もともとこの観光協会自体は、戦後毎日新聞社が「日本観光百選」という事業を企画し、弘前市を入選させるために組織されたものだった。事業が終われば協会も役割を終え、協会は有名無実の存在になっていたのである。
 これに対し、石場旅館石場久一郎古海敏一弘前駅長は、市の勧業課にはたらきかけた。彼らは市当局の観光行政だけでは観光都市弘前をつくれないと見て、行政と市民をつなぐために新たな観光協会という機関の設立を主張したのだった。
 そこで彼らは対策を練る研究組織として、昭和二十九年になってから弘前市観光研究会をつくり、「新しい観光協会の目指す方向をきめる」こととなった。研究会には石場や古海のほか、工業試験場や商工会議所日本交通公社、観光土産品関係者の代表が集まり、それに市の勧業課職員が参加している。
 研究会では新しい観光協会の幹部役員の人選に工夫を加えた。新会長は市長や商工会議所会頭でなく、弘前市の商工業界をリードし続けてきた吉井勇を選出している。会長が市長だと市議会からの制約があり、会頭が会長だと商工会議所の会議に制約されると考えたからだった。

写真226 さくらまつりのポスター(昭和45年)

 研究会の代表は田弘前市長に現行の観光協会の解散を要請し、市長は役員会を開催して役員の総辞職を決めた。その結果、新しい観光協会の発足は観光研究会に引き継ぐことになった。研究会は総会を開催して、新しい観光協会を発足させるために規約を改正し、役員を改選した。吉井会長のもとに副会長を近藤善蔵商工会議所副会頭とし、事務局は市の勧業課に置くことになった。
 こうした動きに対し、再編される観光協会の中心母胎になるべき商工会議所が、観光協会の再編成をめぐる会議や懇談会に出席しないという事態が起こった。会議所自体に独自の観光協会を設置する意図があったからだといわれている。『陸奥新報』は社説で「会議所の態度を不可解だというほかはない」とし、もし「独自別個の観光協会をつくるようになつてはいたずらに世間の物笑いになるだろう」と商工会議所を批判した。商工会議所としては、行政が主導して観光事業を推進することへの反発表明でもあった。
 また、協会の実質的な運営を担当する事務局がなお市の勧業課に置かれていることには、市の内部からも批判があった。とくに公的機関たる市当局が、民間団体の事務を担当していることは問題視された。極度の財政難と人員整理の結果、膨大な業務を抱える市の職員に、観光事業の構想や企画を立てる余裕がないのは目に見えている。そのため『陸奥新報』も「協会としてすみやかに有能な適任者を物色し事務局主催の地位にすえ、補助職員をもおいて事務機構を整備すべきであろう」と主張していた。
 その一方で『陸奥新報』は、観光事業が市内の商工関連業界を基軸として進められる以上、会長は弘前商工会議所の会頭が就任し、事務局も会議所に移して会頭の指導のもと、強力な協会を作るべきだと主張している。そして今後の弘前市は観光地態勢を整え、宣伝・紹介を有効に行い、観光客を多く誘致することが一層必要となる、そのため観光協会の任務も非常に大きなものがあると主張していた。『陸奥新報』が指摘する「観光協会のそだたぬ観光地だなどととりさたされている」との批判は、広く市民の間にも広がっていたのである。
 こうした経緯を受けて、新観光協会の会長であった吉井と副会長の近藤は辞表を提出し、再び観光協会役員の一新をはかった。観光協会の事務局を担当していた市の勧業課も、商工会議所側と折衝した結果、事務を商工会議所に引き継ぐことにしている。こうして昭和三十年、第二回の観光協会の総会で、商工会議所会頭の雨森良太が新しい会長に選出された。岩淵市長を発起人として立ち上がった観光協会も、さまざまな紛糾を経て、ようやく一定の落ち着きを見せるようになったのである。観桜会を中心に弘前市の観光が、市内の商工業界に一定の利益をもたらす以上、商工会議所が主導する観光協会は相応しい形態なのかもしれない。実際にこの後、観桜会を中心に、商工会議所はさまざまなイベントを講じ、観光都市の育成に大きく貢献している。
 しかし観光都市弘前が産声を上げる段階で、市当局や関係部局の職員たちが観光政策に大きく関わっていたことは、具体的には知られていない。そこで次に、草創期の観光協会が行おうとした観光事業や、それを行政の面から支えた市当局の施策を市立図書館等に残された行政文書を中心に紹介していきたい。