土産品開発への模索

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占領軍将兵たちの進駐を前に、県や市町村当局が婦女子を守るために慰安所を設置したり、略奪を防止するために土産物屋の新設を命じたりしたのは第五章第一節で述べたとおりである。進駐軍将兵たちの大半はアメリカ人だった。彼らは妻や子供をはじめ、身内や友人、恋人に対し異国の土産物を買う習慣が強かった。しかしこのことは何もアメリカ人だけでなく、どこの国の人々も大して変わりはない。土産物のよしあしが、その地に足を運ぶ人々の印象に大きな影響力を与えることは否めないだろう。
 合併前後の弘前市の土産物としては、鳩笛、下川原人形、目屋人形、弘前こけしなど、いわゆる伝統工芸品であった。いずれも地域の特徴の出た工芸品といえるが、伝統的な家内工業的生産体制をとっているため、需要に供給が追いつけない状態だった。とくに弘前市が観光都市として宣伝され、次第に全国的に有名になりつつあるのに、土産産業は需要が激増しながら衰退する珍現象を呈していた。そのため県観光工芸品研究会では市当局や金融機関への融資陳情を検討し、申請を行った。だが土産品製作者の団体が冬期資金二十万円を融資して欲しいとの陳情は、結局実現しなかった。
 このような珍現象を見たのは、製作者側の資本力が乏しいことが最大の要因だった。とくに冬期間に製作品をストックするための資金がないというのである。そのため公的な助成があれば、新たな作品も期待できるし観光用の商品開発によって、新商品として販路開拓もでき、立派な産業になる可能性もある。「みやげ品生産は、観光地としての新しい一つの産業を起すのだという見地にたてば、市としての施策の方針や方法はおのずから生まれてくるはずである」との『陸奥新報』の社説は、いつの世でも通じる考え方であろう。
 市当局や観光協会の推奨する土産品は、津軽塗こぎん刺し、下川原人形、あけびづる細工、ブナコ、津軽焼である。これにりんご加工品シードルなどからお菓子類まで)や和洋菓子、地酒が加わる。食料品などには一応の進展が見られるが、全体的には戦後以降、あまり変わっていないような印象を受ける。新商品の開発や新たな伝統品などを生み出していく活力が必要となるだろう。
 平成期に入ってから、インターネットの普及で全国ないし世界の物品がネット上で購入可能な時代となった。もともと土産物の醍醐味の一つは、現地に行かなければ手に入らないというところにあった。しかし、その醍醐味も意味をなさなくなってきている。弘前市だけに限ったことではないが、市の土産物もネットで購入が可能である。長引く不景気で観光客が減少し、土産物を購入する人々も減ってきている。少子化の影響で、昭和戦後の合併当時のように修学旅行生が押しかける時代は終わった。修学旅行も海外に出かけたりするケースがある一方、長引く不況で縮小・廃止されるところもある。もはや修学旅行生のような団体客に期待するだけでは土産物産業の存続は難しいだろう。
 しかし土産物は観光地の記念であり、記録であることに変わりない。土産は何も他人に与えるだけでなく、自分で保管しておく場合もある。となれば土産を買った人々にとっては大切な思い出であり記憶である。土産品の選定、特質が観光産業として最重要事項であることは、時代を経ても変わらない。ネット販売にはない現地だけの特典を考慮したりする工夫も必要となろう。現地で購入する際の、人間的交流や印象、現地の雰囲気など、ネット販売では経験できない諸要素も、今後の土産品産業の重要な鍵になったと言えるだろう。

写真230 下川原人形「鳩笛」製作風景