海會寺は
宿松山と號し、【位置】南旅籠町東三丁
南宗寺境内にあり、東福寺末、寺格五等地。【沿革】元弘二年前太政大臣從一位
洞院公賢の草創で、
乾峯士曇開山となり、正平六年土木の功殆んど成つた。(園大曆、棟札寫、泉州志卷之一)寺はもと今の
開口神社の西門前にあり、方八町の境域と三百石の寺領とを有し、伽藍整備し、塔頭六院を有したと傳へられ、舊地には有名なる金龍水を殘し、今に甲斐町山口筋を
海會寺前といふのは、舊稱を傳へたものである。(海會禪寺由緖之略記、本末雜亂改正記)後堂宇頗る荒廢し、再興
大德寺第百十七世
古溪宗陳當寺に入り、天正十三年紀伊根來寺傳法院の建物を移して再興した。(
全堺詳志卷之下)今の大町東三丁
祥雲寺所在の邊に轉じたのは、蓋し此時であらう。當時東西三十三間、南北四十八間の境域内に
指月庵、
瑞光菴、
慈雲菴、
清涼軒、
天桂菴、
雲樹軒の六塔頭があつたが、元和の兵燹に佛殿、塔頭、山門等を失ひ、唯方丈を殘すに過ぎず、復興頗る艱んだ。(諸事文見記)時の住職は
清巖宗渭で、看坊の幽庵は
澤庵の門人であつた關係から、當時
澤庵の
南宗寺復興に際し其助力を得て同寺域に入り、然も紛爭を生じて萬治四年の裁決を得るに至つた仔細は、
南宗寺の項に記した通りである。これより先き、【
朱印寺領】
豐臣秀吉は寺領三十石の
朱印狀を寄せ、(
海會寺記錄)
德川幕府亦之に倣つたが、明治四年正月上地した。【本尊】本尊は傳鳥佛師作の阿彌陀如來で、觀音、勢至の兩脇士がある。【堂宇】本堂、庫裏、書院、文庫、門の外に龍王堂一宇あり、境内三百三十七坪。(社寺明細帳)【什寶】什寶に開山
廣智國師木像一軀、達磨大師木像一軀、韋駄天木像一軀、金面龍王木像一軀、涅槃像一幅、十六羅漢畫像十六幅、十六善神畫像一幅、彌陀三尊畫像一幅、寒山拾得畫一幅、棟札寫一葉、
廣智國師書牡丹詩帖之序一帖、清韓和尚書屛風一雙、傳蘇東坡所持葢附鯉魚硯石一面と、之に附屬せる八角形古唐墨一挺、龍形筆架一個、牛形文鎭一個、蛙形水滴一個、木製並に陶製筆管套各一本がある。
第九十六圖版 海會寺屋敷賣劵