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(七)海會寺

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 海會寺宿松山と號し、【位置】南旅籠町東三丁南宗寺境内にあり、東福寺末、寺格五等地。【沿革】元弘二年前太政大臣從一位洞院公賢の草創で、乾峯士曇開山となり、正平六年土木の功殆んど成つた。(園大曆、棟札寫、泉州志卷之一)寺はもと今の開口神社の西門前にあり、方八町の境域と三百石の寺領とを有し、伽藍整備し、塔頭六院を有したと傳へられ、舊地には有名なる金龍水を殘し、今に甲斐町山口筋を海會寺前といふのは、舊稱を傳へたものである。(海會禪寺由緖之略記、本末雜亂改正記)後堂宇頗る荒廢し、再興大德寺第百十七世古溪宗陳當寺に入り、天正十三年紀伊根來寺傳法院の建物を移して再興した。(全堺詳志卷之下)今の大町東三丁祥雲寺所在の邊に轉じたのは、蓋し此時であらう。當時東西三十三間、南北四十八間の境域内に指月庵瑞光菴慈雲菴清涼軒天桂菴雲樹軒の六塔頭があつたが、元和の兵燹に佛殿、塔頭、山門等を失ひ、唯方丈を殘すに過ぎず、復興頗る艱んだ。(諸事文見記)時の住職は清巖宗渭で、看坊の幽庵は澤庵の門人であつた關係から、當時澤庵南宗寺復興に際し其助力を得て同寺域に入り、然も紛爭を生じて萬治四年の裁決を得るに至つた仔細は、南宗寺の項に記した通りである。これより先き、【印寺領】豐臣秀吉は寺領三十石の印狀を寄せ、(海會寺記錄)德川幕府亦之に倣つたが、明治四年正月上地した。【本尊】本尊は傳鳥佛師作の阿彌陀如來で、觀音、勢至の兩脇士がある。【堂宇】本堂、庫裏、書院、文庫、門の外に龍王堂一宇あり、境内三百三十七坪。(社寺明細帳)【什寶】什寶に開山廣智國師木像一軀、達磨大師木像一軀、韋駄天木像一軀、金面龍王木像一軀、涅槃像一幅、十六羅漢畫像十六幅、十六善神畫像一幅、彌陀三尊畫像一幅、寒山拾得畫一幅、棟札寫一葉、廣智國師書牡丹詩帖之序一帖、清韓和尚書屛風一雙、傳蘇東坡所持葢附鯉魚硯石一面と、之に附屬せる八角形古唐墨一挺、龍形筆架一個、牛形文鎭一個、蛙形水滴一個、木製並に陶製筆管套各一本がある。

第九十六圖版 海會寺屋敷賣劵