本願寺派堺別院は信證院と號し、【位置】神明町東二丁にあり、始め樫木屋町にあつたので、樫木屋御坊と呼ばれ、又大谷派本願寺別院卽ち南御坊に對して北御坊の稱がある。【沿革】寺傳始め足利義氏の第四子祐氏堺に住し、道祐と號し、天台宗を學び、後本願寺覺如に歸依して改宗、一寺を創建した。第五世樫木屋道顯は文明二年將に廢頽せんとせる堂宇を再興し、蓮如を請して慶讚の導師とした。(堺御坊御役錄、大谷本願寺通記)此時寺地は北庄山の口中町にあつた。(眞宗寺所藏親鸞聖人御繪裏書)同八年道顯一宇を境内に營んで信證院と號し、之を蓮如に捧げ、蓮如卽ち此處に寓居して十字佛名、廣文類、持名鈔等を手書して道顯に授與し、且泉、紀の化導に努めた。是れ卽ち當別院の起源である。(大谷本願寺通記、泉州志卷之一、眞宗寺略緣起)契丹國の詹仲和來つて蓮如の德化に浴したのは此時であつた。(大谷本願寺通記、眞宗寺略緣起)次いで准如は當院の久しく荒廢せるを歎き、之を再興せんとし、某年十一月桁行十五間、梁行十五間半の本堂を竣功した。正德五年寂如復重興を議し、十月起工、享保八年三月定礎式を擧げ、十一年三月上棟、十三年十月住如其嗣光啓(湛如)と共に慶讚供養を修した。此工事に從事した工匠棟梁は水口伊豆守宗茂、水口若狹守心貞である。(大谷本願寺通記)是より先、正德五年三月住吉村今在家の村上庄右衞門なる者、其所有地材木、宿屋兩町の濱兩側及び神明町濱片側に於て合計總坪數七千三百八十坪餘を再興用地として寄進した。(聞藏寺文書)明和三年蓮如廟の建築に着手し、安永七年九月法如其嗣光輝(文如)と共に臨場して慶讚供養を修した。規模全く京都大谷の廟堂に則り、拜堂の丕承堂及び中間の中宗の額は何れも法如の書に成つた。【本尊】本尊聖德太子作の阿彌陀如來は之を江戸別院に遷し、新に准如自刻の本尊を安置した。廟堂の蓮如像は法如畫くところの黑衣の畫像で、安永七年慶讚供養の際に附與せられたものであるが、平常は之を寶庫に藏し、傳來の黑衣白袈裟の畫像を以て之に代へ、彩衣の畫像は餘間に揭げ、後本山の命により三幅中の一幅彩衣の畫像を返還した。(本願寺通記)【失火】寬政十年正月佛供所より出火し、本堂、廣間、臺所、殿堂廻り等灰燼に歸し、表門、御成門、土庫、文庫、鐘樓等辛うじて類燒を免れた。(就御坊御燒失假御堂ニ付記錄幷諸事控)【再建工事】是に於て聞藏寺心俊は自坊を獻じて假堂に宛て、二月本山は橫田内膳の名を以て、再興の擧を和泉の飛椽衆、總坊主衆及び總門徒中に傳へ、五月再興一切の事務は、聞藏寺心俊をして管掌せしむべきこと、三五年の間相應の醵金をなし、建築資金を調達すべき旨を、堺總講中及び總門徒中に達示し、(聞藏寺所藏西本願寺別院再興關係文書)釿始には長崎屋甚三郞寄進の巨材によつて盛儀を行ふた。尋いで對面所の建築成り假本堂に充て、小山屋吉郞兵衞、井谷利助及び長崎屋甚三郞等は普請世話方として、文政三年より五箇年間を以て本堂再興の方法を定め、同五年二月礎石敷設、八月上棟式を擧げ、同八年工事竣成し、三月遷佛式を執行した。燒失より玆に至るまで二十八歳を經過した。(堺御坊御燒失より本堂御再建御遷佛迄の記錄)【屬寺】當院は攝、河、泉に於ける配下寺院を管し、本願寺通記には八十五邑を擧げ、文化十二年の記錄には、攝津三十一箇寺、和泉九十六箇寺、河内に於て三十七箇寺の隸屬末寺を擧げてゐる。(文化十二乙亥年改御配下御末寺帳)【朱印寺領】寺領三百石内二百八十石は和泉踞尾村、二十石は山城山科村に有したが、(文化十年手鑑)明治四年正月上地した。同年堂宇を堺縣廳舍に貸與し、同六年二月土地建物を擧げて廳舍用に獻じ、當寺院は三月宿院町東二丁字有樂町今井彦次郞所有地の内、表口南北十五間、裏幅南北三十二間、奧行東西二十九間、【移轉】坪數七百二十七坪を買收して移轉することゝなり、(堺坊舍移轉一件)建築に着手したが、同十四年堺縣廢止に際し、土地物件の拂下げを乞ひ、建築中の工事を中止し(堺市役所所藏明治二十五年社寺に關する書類)【復舊】同十六年二月移轉復歸した。(大阪府全志)【殿堂】境域二千二百八十坪、周圍に牆壁を繞らし、方十五間餘の本堂を中心にして庫裏、玄關、大廣間、書院、座敷、集會所、北茶所、南茶所、佛供所、廟堂、拜堂、經藏、鼓樓、鐘樓、門番所等の建物甍を聯ね(社明細寺帳)【梵鐘】鐘樓の梵鐘は開口神社の別當舊念佛寺のもので、同寺は元和の兵火に罹災したが、長谷川藤廣再興の際、同三年梵鐘を新鑄して寄進したもので、(鐘銘)維新後當院に轉入したものである。