眞宗寺は
信證院と號し、【位置】神明町東、二丁字寺町にあり、眞宗大谷派
本願寺末、寺格五箇寺。【沿革】寺傳によれば足利義氏の四男
祐氏堺に來り
本源院道祐と號し、天台僧となつたが、
本願寺覺如に歸し、延元二年三月一寺を營んで餘生を送つた。(
眞宗寺略緣起、大谷
本願寺通記)
覺如も亦當所に下向して、惠心作本尊、自畫灰具左上の影及び自筆の三帖和讚を授與し、寺號を
眞宗寺と名づけた。(
眞宗寺略緣起)同三年
足利尊氏莊園を寄附し(大谷
本願寺通記
眞宗寺略緣起)二世
定慧院道教、三世
不斷院道圓、四世
福智院道乘を經て、第五世
本覺院道顯に及んだ。(
眞宗寺系圖)道顯は文明二年の冬
蓮如下向の際、同寺の廢頽を再興した。(古今御役錄)此時
蓮如は親鸞の四幅繪傳に裏書を誌した。(規鸞上人繪傳裏書)創建當時の寺地は樫木屋町にあつたので世に
樫木屋御坊と稱したが、(古今御役錄)同町は既に其名を失して舊地は明かでない。文明二年再建の當時には北庄山口中町にあつた。(規鸞上人繪傳裏書)同八年の秋更に境内に別宇を營み、
信證院と號して之を
蓮如に捧げ、
蓮如は此處に寓居して、十字名號、廣文類、持名鈔等を手書して之を道顯に授與した。契丹國人詹仲和來つて
蓮如に歸依したのは、此頃のことであると云はれてゐる。(大谷
本願寺通記、
眞宗寺略緣起)【歴世】次いで第六世律師
弘誓院淨尊は
蓮如の第十二女妙悟禪尼(泉殿と稱す)を娶り、
蓮如八十二歳の自刻肖像を得て之を安置した。(
眞宗寺略緣起)第十世僧都
本宗院顯珍に至り
教如に歸し、數々功を石山
本願寺に樹て、天正八年六月命を受けて越後に使し(
眞宗寺略緣起、越後國軍勢催促之教書)功により
教如着用の法衣並に狩野探幽畫の中啓一握を賞與せられた。(
眞宗寺略緣起)又十三年
顯如貝塚より大阪へ歸還の際にも頗る功勞があつた。次いで第十四世
光闡院琢眼(圓珍)に至り、故あつて寬文三年五月寺地を分割して別宇たる小院に退き、轉じて大谷派に歸屬した。當時通行した黑門は、北方別院との境界にあり、今は閉鎖して居る。第十六世
圓妙院眞覺(
超譽)は琢如宗主の孫で、入つて法燈を嗣ぎ、延享二年四月勅許院家に補せられた。當寺は斯の如く
覺如、
蓮如、
顯如、
教如等
本願寺の歷代と特別の關係があるので、【格式】諸事西
本願寺掛所(別院)同樣の格式あり、寶曆七年四足門建築の際には屋上に獅子口瓦を使用した。(
堺奉行所宛口上書)寬政十年正月、西
本願寺掛所佛供所より失火の際には餘焰を被り、破損の箇所頗る夥しかつた。(就御坊御燒失假御堂に付記錄幷諸事控)【寺家】寶永元年の記錄には寺家
正安寺の名が見えて居る。(堺南北寺院塔頭之諸出家印鑑帳)明治六年十一月柳之町東二丁の掛所
專妙寺は廢寺となり、佛像、什器等を擧げて之を併合した。(諸寺院明細帳、廢寺屆)【本尊】本尊阿彌陀如來。【堂宇】本堂、庫裏、客間、四脚門あり境内二百五十八坪を有してゐる。(社寺明細帳)【什寶】什寶の主なるものに傳聖德太子作
蓮如内佛安置阿彌陀如來木像一軀、
蓮如八十二歳自刻木像一軀、同愛翫
布袋木像一軀、
覺如筆灰具在上御影一幅、
蓮如上人鹿子御影一幅、契丹國人將來畫二幅、西藏佛畫一幅、土佐將監光國畫
蓮如上人裏書親鸞聖人御繪傳四幅、
蓮如上人筆六字名號一幅、
教如筆甲名號一幅、
覺如畫三帖和讚三册、圓如書御傳鈔二卷、實如書帖外消息執持鈔、光教寺顯誓編反故裏、證如書教行信證大意、
蓮如懷紙和歌一首、實如筆
蓮如上人和歌數首、
教如越後國軍勢催促之教書、同消息二卷、同石山合戰當時着用法衣一領、同中啓一握並に念珠一連等がある。【墓碑】又墓地には藪内流の茶宗
岸紹易の墓碑がある。
第百圖版 親鸞上人繪傳裏書