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(三九)眞宗寺

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 眞宗寺信證院と號し、【位置】神明町東、二丁字寺町にあり、眞宗大谷派本願寺末、寺格五箇寺。【沿革】寺傳によれば足利義氏の四男祐氏堺に來り本源院道祐と號し、天台僧となつたが、本願寺覺如に歸し、延元二年三月一寺を營んで餘生を送つた。(眞宗寺略緣起、大谷本願寺通記)覺如も亦當所に下向して、惠心作本尊、自畫灰具左上の影及び自筆の三帖和讚を授與し、寺號を眞宗寺と名づけた。(眞宗寺略緣起)同三年足利尊氏莊園を寄附し(大谷本願寺通記眞宗寺略緣起)二世定慧院道教、三世不斷院道圓、四世福智院道乘を經て、第五世本覺院道顯に及んだ。(眞宗寺系圖)道顯は文明二年の冬蓮如下向の際、同寺の廢頽を再興した。(古今御役錄)此時蓮如は親鸞の四幅繪傳に裏書を誌した。(規鸞上人繪傳裏書)創建當時の寺地は樫木屋町にあつたので世に樫木屋御坊と稱したが、(古今御役錄)同町は既に其名を失して舊地は明かでない。文明二年再建の當時には北庄山口中町にあつた。(規鸞上人繪傳裏書)同八年の秋更に境内に別宇を營み、信證院と號して之を蓮如に捧げ、蓮如は此處に寓居して、十字名號、廣文類、持名鈔等を手書して之を道顯に授與した。契丹國人詹仲和來つて蓮如に歸依したのは、此頃のことであると云はれてゐる。(大谷本願寺通記、眞宗寺略緣起)【歴世】次いで第六世律師弘誓院淨尊蓮如の第十二女妙悟禪尼(泉殿と稱す)を娶り、蓮如八十二歳の自刻肖像を得て之を安置した。(眞宗寺略緣起)第十世僧都本宗院顯珍に至り教如に歸し、數々功を石山本願寺に樹て、天正八年六月命を受けて越後に使し(眞宗寺略緣起、越後國軍勢催促之教書)功により教如着用の法衣並に狩野探幽畫の中啓一握を賞與せられた。(眞宗寺略緣起)又十三年顯如貝塚より大阪へ歸還の際にも頗る功勞があつた。次いで第十四世光闡院琢眼(圓珍)に至り、故あつて寬文三年五月寺地を分割して別宇たる小院に退き、轉じて大谷派に歸屬した。當時通行した黑門は、北方別院との境界にあり、今は閉鎖して居る。第十六世圓妙院眞覺超譽)は琢如宗主の孫で、入つて法燈を嗣ぎ、延享二年四月勅許院家に補せられた。當寺は斯の如く覺如蓮如顯如教如本願寺の歷代と特別の關係があるので、【格式】諸事西本願寺掛所(別院)同樣の格式あり、寶曆七年四足門建築の際には屋上に獅子口瓦を使用した。(堺奉行所宛口上書)寬政十年正月、西本願寺掛所佛供所より失火の際には餘焰を被り、破損の箇所頗る夥しかつた。(就御坊御燒失假御堂に付記錄幷諸事控)【寺家】寶永元年の記錄には寺家正安寺の名が見えて居る。(堺南北寺院塔頭之諸出家印鑑帳)明治六年十一月柳之町東二丁の掛所專妙寺は廢寺となり、佛像、什器等を擧げて之を併合した。(諸寺院明細帳、廢寺屆)【本尊】本尊阿彌陀如來。【堂宇】本堂、庫裏、客間、四脚門あり境内二百五十八坪を有してゐる。(社寺明細帳)【什寶】什寶の主なるものに傳聖德太子作蓮如内佛安置阿彌陀如來木像一軀、蓮如八十二歳自刻木像一軀、同愛翫布袋木像一軀、覺如筆灰具在上御影一幅、蓮如上人鹿子御影一幅、契丹國人將來畫二幅、西藏佛畫一幅、土佐將監光國畫蓮如上人裏書親鸞聖人御繪傳四幅、蓮如上人筆六字名號一幅、教如筆甲名號一幅、覺如畫三帖和讚三册、圓如書御傳鈔二卷、實如書帖外消息執持鈔、光教寺顯誓編反故裏、證如書教行信證大意、蓮如懷紙和歌一首、實如筆蓮如上人和歌數首、教如越後國軍勢催促之教書、同消息二卷、同石山合戰當時着用法衣一領、同中啓一握並に念珠一連等がある。【墓碑】又墓地には藪内流の茶宗岸紹易の墓碑がある。

第百圖版 親鸞上人繪傳裏書