第二次直轄となり、イシカリには調役以下の詰合役人が派遣されるようになるが、特にイシカリ詰の調役は、シャコタン(積丹)からアツタ(厚田)までをイシカリ持場として担当することになった。それゆえ、イシカリはこれらの広域地域における行政の中心地となった。
イシカリがこのように重視されたのは、日本海岸と太平洋側をむすぶ道央部の要衝に位置し、しかも有名な鮭の大漁場であると同時に、石狩川の上・中流域のアイヌとの交易物の集散地であり、加えて、背後に広大な石狩平野をかかえて、農業開発の将来性も十二分に有していたからである。イシカリ建府論(第十章参照)が構想される理由もここにあった。
第二次直轄となり、イシカリ・サッポロに最も大きな変化をもたらしたのは、安政五年(一八五八)に実施されたイシカリ改革であった。イシカリ改革は、場所請負制を廃止し、幕府・箱館奉行による直接経営(直捌(じきさばき))を行うことで、狭い意味では漁場改革であった(第四章参照)。しかしその一方では、漁場の解放により出稼・永住人が増大し、それに付随して商工人が移住し、町家や寺社の建築もなされ、イシカリに大きな繁栄をもたらすことになる。
イシカリ改革にともない、イシカリ詰の勤番所はイシカリ役所と称されるようになった。改革後は役所の新築、役人の増加、カラフトのクシュンナイに出稼所の設置など、イシカリ役所は広範な職政を展開していく。その中にあって諸事を統轄し、改革の成功とイシカリ役所の運営をまとめあげたのが荒井金助であった。金助はシノロに農場を開き(荒井村と称された)、この時期、イシカリ・サッポロの発展に最も寄与した人物といえよう。