二人の調査は松前領だけでなく、蝦夷地の一端に及んだ。すなわち四月十三日森で初めてアイヌの家を訪ね、異文化に接して目をみはり強い関心をいだくようになった。それから西蝦夷地イワナイに達するのが五月二十一日、ここが足跡の北限となる。それからシマコマキにひきかえし十日ほど滞在、ここの場所請負人小川屋九右衛門とは書画俳句を通して知己だったからである。さらに乙部、江差を経て福山城下に一カ月余とどまり、七月十九日三厩に向け出帆、五カ月ぶりで八月九日仙台にもどった。なお、石川子浩も同日程だったと思われるが、その記録を見る機会がまだない。のち、小野寺は藩政改革の柱となる西洋技術による軍艦建造にたずさわるなど、めざましい活躍をし慶応二年(一八六六)五七歳で没した。
この遊歴で小野寺はイシカリ・サッポロに足を入れなかったから、直接イシカリの光景を目にしていないはずである。しかし、その遺稿といわれる『小野寺鳳谷先生草稿』(函図)の中に「石狩河口」図が一葉残っている。川口の西方から川岸に停泊する数艘の帆船をはさんで両岸を鳥瞰した横長の墨一色の略画で、他図とともに版本の下絵風にえがいているのをみると、挿絵を添えた道中記の出版を計画していたのかもしれない。これが画を善くしたという小野寺の筆になるならば、画材を提供した人がほかにいなければならない。仙台藩庫や養賢堂には早くから多くの蝦夷地情報が蓄積されていただろう。また江戸に行けば幕府や昌平校関係者から資料を入手できる人脈につらなっていたから「石狩河口」の原図を得るのはさほどむずかしくない。むしろ道中記の中に石狩図を配そうとしたことに意義を認めるべきだろう。
写真-5 石狩河口(小野寺鳳谷先生草稿より)
旅中、彼はイシカリ情報を得る偶然の機会にめぐまれる。五月二十三日シマコマキの運上屋で、松前藩士らがイシカリ勤番をおえて帰郷する途中、船便の風にめぐまれず、ここに五日も滞在する一行と出会い、何かとイシカリにかかわる話を聞くことになったろう。一行は十数人で中に三味線指南まで加わっていたから、多様な体験談がもたらされたはずである。あわせて松前藩士が商人にたかり私腹を肥やす様子を目のあたりにする。
さらに、江差では岡羊(半か)右衛門からイシカリ川の話を聞き、藩医西川杏平からイシカリ川と千歳川が松前宗谷を往復する重要なルートであると知らされる。また、ユウフツこそ「都スヘキ地也、箱館ニテハ南エ寄過テ、大業ニハ不足ナリ」(蝦夷奇観附録)と聞かされた。このように小野寺は間接的にかなりのイシカリ情報を入手しているので、河口図の画材も旅中に得て帰ったのかもしれない。