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十二場所論

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 小野寺が入手したイシカリ情報の中で特異なのは十二場所論だろう。彼は『北遊紀聞』で、イシカリに「十二ケ所」の「川漁場」があるとし、次の地名をあげる。
下サツホロ 五リ  ナイホウ
上サツホロ 七リ  下ツイシカリ 八リ
上ツイシカリ  上ユウバリ 十五リ
下ユウバリ 十六リ  シマウフ 廿三リ
上カバタ 廿一リ  下カバタ 九リ
シノロ 七十リ程  トタヒラ

蝦夷奇観附録』ではこれに「此河筋ニ夷人住テ、鱒ヲトル、凡百八十里程ト云。其奥ハ知ルベカラズ」と注記している。
 仙台をはじめ諸藩が警衛のため多数の士卒を蝦夷地に送ることになると、道中案内書が求められ、小野寺はこれまで収集した資料をもとに『松前蝦夷道中細見記』と『蝦夷海陸路程全図』を編纂、安政二年江戸の書店から刊行した。仙台藩の調査活動はこうした事態に直ちに対応し役立つ資料を提供できる体制にあったわけで、ここでも小野寺は十二場所論を紹介したのはもちろんである。『路程全図』に位置づけられた十二場所をみると、いずれもイシカリ川沿いにあり、川口に一番近いのが下サッポロ、「男アカン」「女アカン山」の間にある水源に近いのがトタヒラ、その間、前記の順で両岸に位置づけられている。上ユウハリと下ユウハリの間、両岸山のせまる所に「カムイコタン」を表示し、川口からここまで川に朱線を入れてあるから、船路があったことを示している。「此上ハ夷ノ丸木舟」という表示は、朱線の上端につけられた説明と思える。そして「石カリ番人、一年一ト来ル」と説明がついているところをみると、このカムイコタンは現在の旭川市周辺にあたるだろう。その上流に下ユウハリからトタヒラまでの六場所が所在すると考えたようだから、千歳越ルートの解釈とともに、小野寺のイシカリ内陸部の理解は充分でなかったとみられる。とはいえ、この時期多くの地図が刊行された中、最も良心的で有益な蝦夷地図と評価されている。
 嘉永六年から、蝦夷地警衛の準備にとりかかる安政二年前半にいたる仙台藩蝦夷地調査をみると、実査地域は箱館松前江差付近に限られ、小野寺はこれをやや広げたが、渡島半島から大きく踏み出すことはなかった。情報内容は対外関係が中心で、加えて一円上地にともなう松前藩の動き、警衛着手のための下調べが当面のテーマになった。調査形態は内偵活動が主で、藩士がイシカリ・サッポロを実査することは未だなく、その必要性もさほど感じていなかったと思われる。しかし、イシカリについての情報は松前藩士や町人を通して入手でき、藩へ漸次もたらされつつあったが、それが藩政に直接かかわることはなかった時期といえよう。