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勝右衛門のその後

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 文久年間、こうした日本海ルートの積極ムードと対称的なのが、水戸藩の息がかかった勝右衛門や喜三郎等の退潮に象徴される太平洋ルートの後退傾向である。
 勝右衛門はイシカリの鮭漁経営の失敗から、鯡や昆布を含めた多角経営の必要を感じ、再び水戸藩を通して場所請負人となる画策をつづける。文久三年西蝦夷地フルビラ、ヨイチ、オショロ、東蝦夷地ニイカップ、ミツイシ、シツナイ、ウラカワ、サマニの八カ所を請負いたいと願い出、だめならば五カ所でよいと言うが、箱館奉行の認めるところでなく、さらに慶応元年オタルナイの請負を申し出るが、村並となって不可能だった。そこで、今度は千島のうちシコタン島とその属島を再開発するよう水戸藩にもちかける。水戸藩としては、文久年間以降、農村疲弊回復のため鯡粕移入の必要をきたし、昆布の対外輸出にも関心を寄せたが、政情不安はこうした懸案を解決できぬまま、明治をむかえたのである。
 なお、勝右衛門のその後の動向はよくわからない。慶応元年箱館奉行所への願書には、肩書きに〝水戸大津浜〟の住人とあり、水戸藩への願書に〝石狩新場取開人〟となっている。明治初年開拓使の『官員名札入』に、水戸藩西丸帯刀とともに「御伺 開拓廻漕御用取扱山田文右衛門 手代勝右衛門」の名札がある。これが初代浜名主と同一人だとすれば、網持出稼人から名を消したあと、山田文右衛門の人として働くことになったのだろう。