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直場所の経営費

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 クシュンナイを中心とするカラフト直場所経営の手足となって動いたイシカリ役所は、当然多額の費用をつぎこまねばならなかった。表10のように、箱館奉行所が直接金銭で支出した五カ年の経費は二万三三三七両余で、うち一万七一八二両余はイシカリ役所からの出金。これは全体の七三・六パーセントにものぼり、箱館奉行所の名で行われたクシュンナイ直場所経営は、事実上イシカリ役所によって進められたことを物語っている。しかも、その大半は損分として処理され、出稼人への仕込金の回収、直捌にともなう益金など、ほとんど見込めず、収支のバランスを度外視した政策的な投資にほかならない。
表-10 クシュンナイ経営費(含準備費、安政5~文久3年)
出金内訳金額備考
両 分
石狩より拝借金(安政5年)2,251.
箱館より繰替金(安政6-文久元)6,154. 3.
石狩より繰替金(同上)11,412. 1石狩の損分とする
石狩より拝借金(文久2、3年)3,000.久春内仕入
石狩より拝借金519.内84両は万延元年分
23,337.
『函府雑誌』による。分以下は切りすてた。

 この投資の財源に果たしたイシカリの役割はまことに大きい。まず、安政五年の準備段階で二二五一両余がイシカリ役所から支出された。これはイシカリ直捌にともなう同年の収納金高にほぼ相当し、収納金をすべてカラフトに振り向けたと見てよい。翌六年から文久三年までに一万四九三一両余が支出され、年平均二九八六両余となるから、毎年二五〇〇両を目途としたというイシカリ収納金よりも多い。
 イシカリ改革(場所請負人廃止、直捌制導入)による収納金の処理がどうなされたか、従来いろいろ伝えられてきた。イシカリ建府構想の準備積立金説、蝦夷地内での直捌という特殊体制維持の出費、さては一部流用説まで噂を生んでいる。しかし、すくなくとも文久三年までは、その大半がカラフト経営に投入されたのだった。これらにまつわる懐古談を二つ紹介しておこう。
    佐々木勝造談(恵比寿屋の番人だったが、改革で改役所の帳役付となり、のち取締役並に昇任。)
御直場所として後は、年に金五千両の利益あり。佐々木勝造は漁場取締役横山喜蔵に随ひ、金五千両を箱館奉行所まで携帯して納めたることあり。
    亀谷丑太郎談(改革の年イシカリ役所詰となった足軽、ハッサム勤番所に在勤した。)
石狩場所より金五千両を箱館に持参せしは亀谷丑太郎也。小嶋源兵衛調役の時にして、文久二年十一月廿一日箱館奉行所へ納めたり(註 文久二年は荒井、尚石狩在勤)。其時金助に逢ひて、其事を話せしに、金助手を打て歓ひたり。元来、金助は石狩を改革し、従来より五倍の利ありしを、一文も箱館へ納めすして之を開拓発展に投したれは、箱館にては甚た不満にて、金助室蘭へ転勤せしも、実は左遷の姿なり。金助の意は石狩を首府として、蝦夷地を守護せんには大金を要すへし。箱館奉行所の言ふ事を一々聞きては、何事も成し能はしとて、随分独断遂行せしこともありき。
(いずれも石狩場所 札幌市街 石狩町資料による)