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後年の聞取り等によるもの

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 第三編で述べられたように、天明期田沼政権による蝦夷地の調査によってイシカリ平野の存在が幕閣に知られ、ついで幕府の第一次直轄期に多くの人が蝦夷地に入り、そこから蝦夷地開拓論が生まれ、さらに近藤重蔵によるイシカリ要害論など、のちの建府論につながる意見が唱えられるに至った。第二次直轄期になると、北方問題のより一層の緊迫化、しかもカラフトがその中心となったため西蝦夷地が重要視されるにともなって、すでに安政二年頃から識者間で北の都督府としてイシカリが注目されるなど(第二章第一節)、防衛と関わるイシカリ建府・開拓論がより多く主張され、そうした状況を経て、明治に入って開拓使による札幌本府の建設が行われることとなる。しかし札幌本府問題は、その後も複雑な経過をたどって決定したのであって、必ずしも順調な歩みといえるものではなかった。このため本格的な記述は次巻にゆずり、本章では、とりあえず安政以降に唱導された意見の、主なものを紹介することを主眼とした。
 箱館奉行堀織部正およびイシカリ役所調役荒井金助の意見については、直接の史料は見出してはいないが、数種の編纂物・聞取り等の内容がほぼ一致するので事実であろうと思われる。
 すなわち『荒井金助事蹟材料』中の「一 金助勤倹の事 附石狩中都計画之事」中では、
其志を遂げしめば石狩は当時に於て既に中都となりしものを惜しきことなれ。織部正が金助を貧賤の中に採用し、委するに石狩開拓の任を以てしたるハ、善く人を知るといふべし。金助も亦慨然自ら任じ、改革の総収入金額の従前に五倍せるを積て善く用ひ、遂に対雁に城廓を立て石狩を以て中都となさんと願し、之を函館奉行に納金せさるを以て、或は金助を譖するあり。

とある。ここではたとえばイシカリ改革によって収入が五倍になったなど、不確かな部分も多いが、イシカリ中府の部分は他の聞取りもほぼ一致している。すなわち、イシカリ役所のあるイシカリを中都とし、ツイシカリに城を築くという意見である。中都とはおそらく箱館の次に位する、という意味であろう。ツイシカリは、一つは川づたいに千歳越えをして太平洋岸のユウフツへ出、またイシカリ川をさかのぼると、現在の天塩および北見地方へ出、さらにルルモッペ(留萌)へも抜ける交通の要衝である。すなわち、イシカリが攻撃された場合に、内陸であり、かつ交通の要衝であるツイシカリへ退いて防衛するというのが、この構想の基本であって、現実的な対応策として、おそらく当を得たものであろう。
 このほか、同史料は後半に聞書が掲載されている。そのうち関係分を拾うと、まずイシカリ詰の足軽であった亀谷丑太郎の分は「堀織部正ハ、対雁に城を築く見込なりし、其他北海道の見込ありけるを、安藤(信正―老中)と論協ハずして切腹し、荒井金助ハ其志を継ぎて石狩を改革し、収獲の金を積み、之を元として建白し、遂に対雁に築城せんとして亦果さざりき」とある。また金助が「石狩地方ハ都府となり、天皇の臨幸あるに至るべし」と述べた、とも語っている。
 この天皇行幸については、イシカリ改役所にいた佐々木勝造の話として「金助の言ひし詞に最も人々の驚きし事あり。其ハ他にあらず、石狩地方ハ十年を過ぎなバ天子さまの御臨幸遊バす国となるワイといはれし一言ハ、当時人々なんの気なしに聞き過ぎしに、果して十年の後に行幸のありに(ママ)は人々驚きたり」とある。
 これらを総合してみると、種々記述の混乱はみられるものの、この問題に関しては、堀・荒井がイシカリを「中都」とし、さらに防衛施設としてツイシカリに築城する意見を持っていたことは、まず間違いないと思われる。