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兵部省支配の変転

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 ところが、その後間もない七月二十四日に、兵部省は逆に多城国の開拓使への移管を自ら申し出てきたのである。その理由は、一つに今般開拓使が設置された以上、蝦夷地の「一円開拓使ノ管轄ニ不相成候テハ御不躰裁」であること、二つに兵部省は「何分事実多端ニ相成、諸役所へ渉リ候テハ万事行届兼」るということであった(公文録 兵部省伺)。そして末尾に「右ハ昨日船越洋之助へ御談ノ儀モ有之」と記されているように、移管に関し、前日に船越兵部権大丞(後日北海道開拓御用掛兼務となる)を通じて工作がなされていたと見える。その「前日」の七月二十三日は、開拓使への最初の指令である、鍋島長官・清水谷次官・島判官の三人に対し、「石狩出張」が発せられた日である。とすると工作の主体は、あるいは開拓使(上層幹部はこの時点で上記三人のみであったので、動くとすれば島判官か)とも推論できるが、事実、木戸孝允は次に述べるように、開拓使を元凶にあげている。
 当時閑職(待詔院出仕)にあった木戸は、蝦夷地移管問題を知って、七月二十六日付で兵部大輔大村益次郎に厳しい書を提している。その冒頭に「蝦夷地之事開拓懸りと歟より、何歟愚論を出し、御省之手は御はなしに相成候歟之由、無余儀御行かゝり歟は存不申候得共」と書き出し、次いで会津降伏人による蝦夷地開拓は「壱万余人之其所を得ると、其上不毛之地を不労して開拓いたし候良策、公私之為無此上事と相考、後来之為にも訖度手本を相残し置度儀と尽力も仕候」、それ故「決て開拓にて十分手を下し候事は不相成儀必然」であって、「無御容赦御引受之処奉祈候」と結び、開拓使への移管阻止のため大村を叱咤激励している(木戸文書 九)。
 しかるに、論議の詳細は知り得ないが、一旦石狩近辺支配の開拓使移管は決定される。木戸の日記の七月二十七日の条に「蝦夷地の開拓に付曾て詮義を遂けし論、再御評議変せり、依て余の旨趣を条岩卿へ諭す」(木戸日記 一)と記されている。蝦夷地(石狩近辺)の開拓はすでに(兵部省管轄と)決定しているにもかかわらず、再評議されて、(開拓使管轄に)変更された。よって自分の本旨(兵部省管轄)を三条・岩倉両卿に申し入れた、ということである。
 ところが、この木戸の激しい抗議が功を奏したのか、七月二十九日再び木戸は日記に「蝦夷地の論又変し、余の詮議せし旨趣へ帰せり」(木戸日記 一)としたためている。再転して政府は、石狩支配の開拓使移管を取消して、本来の兵部省支配にもどしたのである。後日(八月五日)木戸は大村にその経緯を語っている。
一 蝦夷一応申上候通昨冬百年之見込を以断然相決、至今日動揺いたし終に全策を誤る、如何にも遺憾千万、先生之高説有之候得ども其中には日月相過其損益不可言、故に不得止大議論を起し、前に相復し、井上(馨)へ申含め候て申遣し候、此後之御都合も可有之に付申上置候
(木戸文書 九)

 そして八月十五日の北海道国郡画定に基づき、同月二十日太政官兵部省に対し、「石狩国ノ内石狩郡、後志国ノ内高島郡、小樽郡 右三郡其省支配ニ被仰付候事」(公文録 兵部省伺)と指令するに至ったのである。
 なお上記三郡の兵部省支配の外に、九月五日付をもって太政官は、石狩国の内の浜益郡・厚田郡(忍路コッ)・札幌郡の内(ツイシカリ)・札幌郡、後志国の内の忍路郡・余市郡・美国郡・古平郡の兵部省支配を指令しているが、それに対して九月十三日兵部省太政官弁官に「別紙(上記の指令書)ノ通東京根省ヨリ申来候間、相違候、仍テ此段申入候也」(同前)と、訂正の申入書を提出している。ただしこの申入れに対する太政官の指令は付されていないが、上記各郡の兵部省支配はなかった。どのような手違いで上記支配の指令を太政官は発したのか詳細不明であるが、後述する、島の浜益厚田二郡と高島・小樽二郡の開拓使兵部省相互交換案がからんだものと推測される(ただ一万人以上の降伏人移住計画では、当初の石狩・高島・小樽の三郡では不足であろう。そのため九月十四日改めて後志国のうち瀬棚・太櫓、胆振国のうち山越、釧路国のうち白糠・阿寒・足寄の六郡を兵部省支配としている)。