島判官は十月十二日銭函に到着した。本来樺太へ派遣されることになっていた盛岡藩募集の職人たち(管内外往復留 道文二三〇)は、開拓使の計画変更にともなって、十月二十一日平山七三大主典に率いられて函館を出発し(明治二己巳年日記 竹内運平ノート 道文)、十一月六日銭函に到着する(御金遣払帖)。一方石狩周辺でも職人人夫を雇い入れる。十月十五日人足小頭友次郎が営繕手代として雇われた。亀吉は十月二十三日から雇われている。この時期に人足の小頭となる由松・平吉・善助は、日付ははっきりしないが、十月中にはすでに雇われている(御金遣払帖)。そのほか余市からは十一月はじめに開拓使普請手伝いとして、十人余が送り込まれている(明治二己巳歳日記 余市町林家文書)。また三年一月になると場所請負人の廃止や鮭漁の終了と共に、厚田浜益など諸郡から人足として場所の出稼人が雇われた(御金遣払帖)。三年二月には、職人人足などだけで五五四人にまでなっている(十文字日記)。
開拓使役人たちが職人や人夫を引き連れて札幌方面での活動を開始するのは十月後半からである。本府地選定のために、十月十四日に富岡復起少主典が札幌へ派遣された。その後、本府建設予定地の確認のためと思われるが、十一月九日に十文字大主典が札幌へ本府地見分に行った。そして十一月十四日から平山大主典・野村少主典が本府建設のために派遣された。また十月十八日には豊平開墾のために、石山大主典に資金が渡された。一方札幌銭函間の道路の建設のために、十一月から林少主典(当時札幌には林幸吉郎と林復太郎の両少主典がいるが、どちらか不明)や長尾良之助少主典が発寒村に派遣され、豊平開墾中止後の十八日に平田貞治使掌も発寒村に派遣される(御金遣払帖など 十文字文書 道文)。
十一月十四日平山大主典に札幌表館舎造営御入用分として五〇〇両が渡された。また職人たちについては、南部木挽の棟梁である金十郎が、十一月十三日から札幌へ木挽を送るために入用品を要望してきた。さらに十一月十四日には、すでに札幌への商家取建として一〇〇両を清水利左衛門に貸している(十文字龍助関係文書補遺 札幌の歴史第一四号)。これらから考えて、本府建設事業としてこの時期にはかなり具体的な計画が進められていたのである。