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開拓使本支庁体制

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 四年八月には北海道分領支配ならびに樺太開拓使が廃止され、開拓使の管轄範囲は一挙に増大した。そのため従来の開拓使機構では行政施行上大きな障害をもたらし、その機構改革は不可避となった。ここに五年八月二十八日黒田次官は、「今般更ニ北海全道十一国並樺太州ヲ併セ六大部ニ区分仕、札幌ヲ本庁ト相定メ毎部支庁ヲ設ケ置キ、大中少判官ノ内ヲ以テ各自其部内ヲ管理致サセ、重大事件ヲ除クノ外常例成規ニ則リ検断施行セシメ候ハヽ、遼遠懸絶ノ地方ニ有之候共、報告ノ遅速処事ノ齟齬ハ勿論政令一途ノ御趣意ニモ相適ヒ、自然風土民情適宜ノ処分モ出来可申ト奉存候」と、本・支庁の分轄を政府に願い出た。その分轄案は次の通りである。
〔札幌本庁分轄〕石狩国九郡・後志国のうち九郡・胆振国のうち七郡、計二五郡
〔函館支庁分轄〕渡島国のうち三郡・後志国のうち八郡・胆振国のうち一郡、計一二郡
根室支庁分轄〕根室国五郡・千島国五郡・北見国のうち四郡・釧路国七郡、計二一郡
〔宗谷支庁分轄〕天塩国六郡・北見国のうち四郡、計一〇郡
〔浦河支庁分轄〕旦局国七郡・十勝国七郡、計一四郡
〔樺太支庁分轄〕樺太州
(公文録 開拓使伺)

 さらに本庁と支庁との関係を、「右札幌本庁ハ各部ヲ総括シ専ラ開拓ノ全権ヲ有シ凡百ノ事務ヲ統叙ス、各部ノ支庁ハ本庁ノ指令ヲ受ケ常例成規ニ則トル可キ者ハ之ヲ専断施行シ、重大ノ事件ハ勿論小事ト雖モ新創ニ属スル者ハ都テ本庁ニ開申シ商議量定ノ後之ヲ処分ス可シ」としている(同前)。この伺は五年九月十四日に容認されて、ここに本庁・五支庁体制が成立したのである。
 しかしながらこの体制は、現実に施行してみると現状と不適合の面が表出され、整理・再編成されていく。それはまず早くも六年二月、宗谷支庁において「宗谷ハ北方ニ偏居シ南方多端ノ事務取扱方不便利ノ廉不少候ニ付」(開拓使日誌)として、支庁の天塩国留萌郡へ転庁して留萌支庁と改称することを願い出て、同月二十五日に容認された。さらにその留萌支庁も八年三月十二日「右地方ハ札幌ノ隣境ニシテ、追々本庁ノ体裁も相立、目今同地方管轄致シ候共事務錯互ノ患無之、従テ入費モ相減旁便利ニ付」との理由で廃し、また浦河支庁も、「人煙繁殖ニ至ラサル処多ク、一支庁ヲ設候ハ冗費ニ属シ候ニ付」として七年五月十四日に廃止され、それらの管轄地域は共に札幌本庁に移管されるに至っている(同前)。
 他方、樺太支庁は日露間の樺・千島交換条約の締結により八年十一月二十日閉鎖された。逆に千島全島は八年十月二十日開拓使管轄とされ、同年十二月二日当分札幌本庁の所管とし、さらに十一年八月七日に根室支庁に移管された。かくして本庁・五支庁体制は、発足して三年余にして本庁・二支庁体制へと縮小を余儀なくされ、それが開拓使廃止まで継続されるのである。
 なお三年閏十月に設けられた開拓使東京出張所は、そのまま廃使まで存続しており、八年十一月二十五日に達せられた開拓使職制並事務章程では、「管内分テ四大部トス」として、札幌本庁、函館・根室の両支庁と共に、東京出張所を挙げている(開拓使公文鈔録 明治八年制旨)。
 以上が開拓使の根幹をなす機構であるが、さらに本・支庁の下に郡を単位とする末端の行政機関が置かれていた。ただし必ずしも郡ごとに置かれたものでなく、人口の多寡や地域の状況によって、一機関は一郡から数郡を管轄しており、またその設置・変遷も区々である。最初に置かれた機関は出張所と呼称され、三年一月に銭函(小樽)仮役所管轄の旧西地に置かれ、五年から他支庁管下にも順次設置をみた。七年から八年にかけて、ほぼ全道の沿岸部に配置された出張所は整理を迎え、出張所の一部は派出所・派出詰所などと改称して近隣の出張所に属せしめられた。さらに八年から九年にかけては大幅な統合が進み、複数の郡を包括する分署に編成された。十一年七月に「郡区町村編制法」が制定されるが、北海道もそれを施行することとなり、十二年から十三年にかけて分署をまた統合再編成して、郡役所区役所となった。この時設置されたのは札幌・函館の二区役所と全道一九郡役所であった。