四年以降漸次札幌は市街をなし、本庁舎官邸営繕のために、三〇〇〇余の諸職人や人夫などが入り込んでいた。開拓使は自ら食料品・小間物・雑貨を仕入れることをやめ、商人の自由営業に任せる方針をとった。そのため市民に商品を安く売るため、五年四月用達たちに札幌に店を開かせた。木村万平、伊坂市郎右衛門、宮辺長七らは共に東京で開拓使貸付会所から金を借り、雑貨を求め、五年八月手代を札幌に派遣して店を開いた。初め手代たちは、渡島通三六番地の遠藤清五郎のところ(南一西四)で店を開いた。その後九月東創成町五番地の木村の運漕店の東側(南一東一)にそれぞれ店舗を新築した。そこで酒、酢、味醂、瀬戸物などの食料品や雑貨などを売った。しかし開拓使の意に反して商品は安くならなかった。
五年十月、用達榎本六兵衛は石川正蔵を札幌に派遣して為換店を開いた。石川は、民地としては新築中の開拓使庁舎の正門に最も近い、南後志通一三番地(現南大通西四)に店を構えた。
開拓使は石川の店と木村等の三店に対し、官庫の食料品並びに日用雑貨を一〇カ月払いで払下げ、商品を安く売らせようとした。しかし彼らは、売れない商品もあるので支払は売れた分だけにして欲しいと陳情した。さらに木村等の店は、五年十一月脇本陣の賄い方なども取扱って利益を上げようとしている。しかしこれらの用達手代の経営が無自覚であったため、七年店の経営は政府の金融引締めの中で左前となって行く(石川家文書)。
石川の為換店は、為換取扱いのほか金融の業務も行っている。それは白石村、手稲村に入植した移民に出される扶助米の三分の一、塩味噌料の半額を預かり、これを元手に工事請負業者等に金や米味噌を貸し利殖を計り、金については一両につき年八朱、米については一割の利を付けるというものである(同前)。
ほかに水戸の商人木村伝六は、四年三月開拓使用達となり、開拓使で必要とする味噌醤油製造器具類を常州石岡にて買い入れて札幌に来た。この買い付けた器具は、篠路につくられた味噌醤油醸造所に納められたと思われる。来住した伝六は、西創成町(南大通西一)で太物雑貨の店を開いた。しかし六年頃店が失火で焼け、伝六は〓清水の旅籠に同居し、ついでそこに店を構えている。