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町役人時代の執務場所

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 明治三年、町代二人(清水三次郎高橋亀次郎)の内、南二条東二丁目高見沢権之丞向角高橋亀次郎宅において執務が開始されたといわれている。これには以下二点について疑問が持たれる。
 一つには、執務の場所として高橋亀次郎宅だけが言い伝えられていることである。高橋が町代を申し付けられたのは四年四月二十九日であり、それ以前は町代見習である(市史 第六巻八九七頁)。清水は三年十月から町代を務めていた(市中諸願綴込 北大図)。執務の場所として清水の家ではなく高橋の家だけが選ばれるのは、すこし不自然ではなかろうか。
 二つめの疑問は高橋亀次郎宅の位置である。『さっぽろ昔話』では南二条東二丁目としているが、『札幌区史』では南一条東二丁目としている。『さっぽろ昔話』の記述は区史編集の際に行った大村耕太郎からの聞き取りによるものである。したがって当時の住所で「今の南二条東二丁目」と語られた。一方『札幌区史』ではそれをもとに、日高通を南一条にした十四年の布達により、南一条と訂正したものと思われる。さらに高橋亀次郎宅は、四年の『札幌区劃図』(北大図)では南一条東一丁目に、八年の『戸籍番号帳』(札幌市文化課)では南二条東二丁目に記されている。実は、四年十一月二十七日高橋は家作中に開拓使へ不足している柾の払下願を出している(市中諸願綴込 北大図)。したがって、四年十一、二月頃に家作し、移転したものと思われる。そして後述の旧本陣への町会所開設の時期と合わせ考えると、執務場所は南一条東一丁目とするのが妥当のようである。五年に来札した大村の話は移転後の位置と結びつけたものではなかろうか。
 四年創成橋畔(現南二東一)に本陣が建設されたことにより、執務の場所は現在の南一条西一丁目の旧本陣跡に移され、ここを町会所とよんだといわれている。町会所の名称は四年十一月十日、町代及び町代見習から開墾掛へ出された深道繁次郎の採用に関する書付の中に見えている。
右之者未七月下旬小走ニ相願罷在候処実体之者ニ御座候随テ奉願上候儀恐多奉存候得共已来御上様ニテ御雇上之上改テ町会所小走被仰付被下置度乍恐此段以書附奉願上候以上
(市中諸願綴込 北大図)

 七月中に市中小走として許可されていた者を改めて町会所小走に「被仰付被下置度」というのである。小走を町会所の管掌下に置くことと、高橋宅から移転して公的施設を設定したことを合わせ考えると、ここに町会所の町の役所的要素がうかがわれ、また町の役所の萌芽を見出すことができるのではなかろうか。
 旧本陣への移転の時期については明確にしえないが、新本陣が落成し小走を雇う七月、小走を町会所小走とする十一月、高橋宅が移転する十一、二月頃などが考えられる。