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本府としての整備

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 明治五年になると、札幌の建設は本庁舎の建設、病院など諸施設の建設、札幌本道の開削などと本格化する。『開拓使事業報告』から判明する五、六年中に建築された建物は、表7のとおりである。また五年の建築工事については、『市史』第七巻(一二二頁以降)に本庁・学校・病院・教師館などの建設に関する史料が掲載されている(開拓使公文録 道文五七三〇など)。それらの史料から、その状況について判明する部分を拾いみると以下のようになる。
表-7 明治5,6年の建築
起工年月 地名 建物 竣工年月
  4年10月 札幌 五住居町長屋 1  5年 2月
   11 渡島通 本陣 1  5. 1
札幌 官舎  5. 4
  5.  4 札幌 回漕蔵地板庫 1  5. 8
    5 東創成通 医学生徒舎 1  5. 8
東創成通 水車米搗機械場 0  5. 11
札幌 回漕蔵地繭糸取場 1  5. 8
札幌 豚小屋 1  5. 11
札幌 職人居小屋 60  6. 2
    6 東創成通 営繕係構内木挽小屋挽溜小屋 2  5. 6
東創成通 木挽機械吹貫上家 1  5. 7
東創成通 蒸気木挽機械所 1  5. 7
札幌 回漕蔵地吹貫小屋 2  5. 8
上川通 木挽機械係詰所 1  6. 4
東創成通 木挽機械附挽溜小屋 1  6. 1
東創成通 工作場木挽水車機械所 1  8. 3
    7 東創成通 営繕係構内作事小屋 2  5. 9
東創成通 会計米庫 2  5. 10
東創成通 営繕係構内ポンプ小屋 1  5. 9
東創成通 営繕係仮出張所 1  5. 7
東創成通 木工仕上ケ所 1  5. 7
雨竜通 黴毒院 1  5. 9
札幌 町長屋 16  5. 10
札幌 回漕蔵地板庫 2  5. 9
札幌 大工小屋 2  5. 7
小樽通 本庁 1  6. 12
    8 東創成通 水車附板庫並米量場 2  5. 11
札幌 資生館十三、二十八官邸物置 3  5. 10
上川通 外国教師五人住居 1  6. 7
    9 東創成通 邏卒屯所 1  5. 11
札幌 蔵地吹貫小屋 0  6. 6
爾志通 西洋風理髪床 1  6. 2
  6.  3 後志通 邏卒屯所 0  6. 5
西創成通 回漕庫地営繕諸品庫 1  6. 3
    4 小樽通 本庁構内分局 1  6. 8
雨竜通 病院病室コック所 3  6. 8
    5 後志通 史生邸 2  6. 8
後志通 西洋造町屋 5  6. 8
浜益 大主典邸 4  6. 8
浜益 少主典邸 4  6. 8
西創成通 回漕庫地営繕諸品庫 2  6. 5
虻田通 第一号洋造官舎 1  6. 8
    9 上川通 病院勅奏邸並門外2邸 0  6. 10
   11 小樽通 本庁構内刑法評席並訴所白洲外2ヵ所 0  6. 12
小樽通 本庁東口見張所 0  6. 12
東創成通 工業局鍛冶細工所 0  6. 12
開拓使事業報告』第2編-土木部建築の付表より作成。門柵など付属物の建築を除いた。

 実際に建築した建物は、本庁、学校、病院、「ケフロンメシヨロ」住居、教師五人住居三棟、役邸一〇軒、次官役邸、仮黴毒院、旅籠屋、邏卒本営などということになる。そして五年になると、お雇い外国人の影響と思われるが西洋風の建物にする意向があらわれる。
 建設の実行状況は、七月半ば頃には「メシヨロクラク」住居は十月初旬竣工予定、「ケフロン」住居、外国人五人住居、本庁、学校などは五年中には落成するが、土台石切取と運送が不便なためいつとは確定できない状況となっている。次官役邸は本年中に落成見込ができれば取りかかる。仮黴毒院、旅籠屋、邏卒本営は八月中落成の見込になっている(開拓使公文録 道文五七三〇)。
 この工事の遅れには二つの原因が考えられる。一つには、札幌詰と東京詰の本府建設についての認識の違いが考えられる。五年四月札幌から東京へ、諸職人たちの募集のために岩瀬権大主典たちを送り込んだ。さらに本庁他の建築費用を見積り東京に報告した。岩村判官は、必要な施設の工事を同時に進行させようとしたらしい。そのため諸職人などが膨大に必要になったものと思われる。ところが東京出張所では、要求してきた諸職人を減らして札幌へ送り込んだ。おそらく東京側は、建築物に緩急の差をつけて工事を進行させることを考えたのである。ところが本府経営のために工事を急ぐ岩村判官は、全般的に建設工事を実施しようとした。そのため職人たちのやりくりに支障が生じ、工事が遅れることになった。それが目立ってきた時に岩村判官たちは、「最初岩瀬権大主典上京之頃、営繕向も御多端ニ可渉見込ヲ以、人数為取調、出京之処、於御地今年営繕之順序御取究、随テ諸職人も相減し御雇越之処、案外之儀ハ、土台石夥敷御入用ニテ、為其諸職働之順序も相違致し」という状態で、手空きの諸職人が多くなり不満が出てきたので、職人たちを削減したことを報告している(同前)。
 二つには、石材の不足が工事の進行を遅らせたことである。ケプロンたちお雇外国人たちの要望で、その住居などを西洋形の建築物にしたため、石畳状の石が必要になった。五年三月頃円山村に建築用に使えそうな石材が発見された(市中諸願綴込 北大図)。それを見込んで西洋建築をしようとした。ところが、「兼テ取極め置き候石山、今般之造営向き被用候畳石無之、夫故壱弐棟迚モ、当年中落成之目途無之」という状態になってしまった(開拓使公文録 道文五七三〇)。
 岩村判官は、石不足のため仕事の遅れている教師館の工事の順序を決定して欲しい旨、黒田次官へ申し入れた。それに対し黒田次官は、土台石は本庁だけにして、他の教師宅など全て建物は木製にするように指令した(同前)。結局五年中の本庁の建築はこのまま中断し、六年七月から再度始められたようである。しかしその時には、他の建築物も含めて石張りは取り止められて板張りになった(遠藤明久 開拓使営繕事業の研究)。