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札幌の橋

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 開拓使時代の札幌の橋の最初は、やはり島判官の本府計画中の官宅前の大友堀にかけたものであろう。四年の『札幌区劃図』で確認できるのは、北三条に一つ、北二条に二つ、南一条に一つである。その後豊平川、胆振川、創成川の整備にあわせて各通に橋がかけられていった。
 札幌の橋で代表的なのは豊平橋であろう。豊平川にはもと橋はなく、渡守として志村鉄一・吉田茂八が配置された話は有名である。四年に豊平川に四月、七月起工の橋二本がかけられた(開拓使事業報告)。豊平川のどこにかけられたのかは不明だが、おそらく現在の国道三六号の近く、元渡し場の辺りと考えられる。二本あるのは、当時豊平川は現豊平橋を中心に上下数百メートルにわたって分流が数本あったからである。最も西の流れは南二条東三丁目の辺や南六条西一丁目の辺へ入り込んでいた。むしろ現在の流れは当時の最も東の端の流れ辺と考えてよい。この四年の二本の橋はその分流の二つにかけられたものであろう。その後五年に一本、六年五本、七年一本、八年二本などと新築橋が毎年かけられている(開拓使事業報告)。これは、後の豊平橋にあたるものが毎年のように流されたという昔話を裏付けるものであろう。これら豊平橋で代表的な工事は、八年のホルトの設計による工事と、十、十一年のホイーラー設計による工事である。八年の工事は、日本最初の西洋式橋と評されているが、十年の洪水で流されてしまった。次いでその工事の欠陥を考慮して改良工事としてなされたのが、後者の工事である(新北海道史第三巻)。『開拓使事業報告』は後者の工事で完成した豊平橋について「明治四年来新架修補概ネ虚歳ナカリシカ此ニ至テ始テ完全ヲ得タリ」と評価している。しかし橋の一覧表をみると十四年に修理をしているので、昔話にある十二年の洪水のため被害を受けたものかもしれない。しかしこの橋はその後大きな破損もなく、二十一年の架け替えまで存続した。
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写真-10 ホイーラー設計の豊平橋(北大図)

 札幌市中の橋としては創成橋がある。この橋は最初は島判官計画中に土橋としてかけられた。その時は創成橋とは呼ばれていない。創成橋の命名は、五年はじめ始成橋という開墾掛の案を、岩村判官が創成橋と修正して決まった(地理諸留 道文六五九)。しかしその後の歴史はつまびらかではない。しかし四年の札幌を撮影した写真には欄干のある木製の橋を創成橋としているものもある。
 十七年、胆振川、創成川など市街を流れている河川にかかっている橋にそれぞれ名前が付された。その時の公文書によると、それまでに名前のついていた橋は、豊平橋創成橋だけといっている。そこで市街の河川にかかっている二一の橋に図4のように命名した(札幌県治類典 道文八九二五)。

図-4 明治17年決定の札幌市街の橋名 『札幌県治類典』(道文8925)より作成。