名主、組頭、百姓代の村三役制は、庚午移民の村落では組と組頭制の廃止により漸次普及していった。すなわち前出表2をみてわかる通り、丘珠、苗穂、札幌村の場合は一部に役職の不明者もいるが、四年には一様に役職者が確認できる。村三役が設置されるのは、おそらく組、組頭が廃される四年二月頃とみられる。
辛未移民の村落の場合をみると、辛未村は琴似村に移転する四年二月頃に村三役がおかれたようである。平岸村は開拓使支配となった元伊達邦寧の家臣が移住したが、移住間もない四年四月に名主に坂本平九郎、組頭に木村柔助、百姓代に高橋陸郎がなっている(細大日記)。いずれも移住の首唱者たちである。月寒村は四年八月に、村取締が廃され村三役の入札がおこなわれた(評議留)。三役が設置されることは、一面では村方支配の機構が形成されると同時に、三役の公選などにみられるように自治組織としての萌芽を形成するものであった。しかし、村三役は近世村の組織であり戸長、副戸長制の創出にともない廃止されることになった。廃止の時期は、札幌村名主小熊善右衛門は五年六月(履歴書札幌村郷土記念館―写真3参照)、篠路村名主早山清太郎は七月に(共進会書類 道文四五五三)差免されているので、この頃とみられる。明治政府は五年四月九日に、荘屋・名主・年寄等を廃止し、かわって戸籍編成につき戸長・副戸長の設置を定めているので、この太政官布告をうけて間もなくの頃であったが、戸長、副戸長の設置の時期とは少しずれがみられる。