琴似村と発寒村は八年、山鼻村は九年に屯田兵が入植すると、兵村の屯田兵のみを管掌する副戸長、総代、副総代が新たに設置された。琴似兵村には九年六月六日に高島量三が副戸長となり、七月二十日に小松勇が総代となった。同時に発寒兵村には戸石定仁が任ぜられ、副戸長も高島量三が十年九月一日に兼務を命ぜられた。
山鼻村は九年五月十八日に大堀忠八が副戸長に任ぜられる。彼は屯田兵の大堀岩太郎の父で、四月に青森県より同村に移住してきた。もと斗南藩少属、青森県第七大区七小区の副戸長を勤めた経験があり(区戸長進退録 道文一五八九)、経歴をかわれての任命であったろう。ただし山鼻村の場合、琴似兵村と違い兵村のみでなく、山鼻村全体を管掌する副戸長であり、総代などの併置はなかった。このために大堀忠八は、「山鼻村二百五十戸余之取扱一人ニテ行届兼候」という理由で総代、副総代の設置を申請し、その結果、総代には屯田兵荒木進之助、副総代には伏見の「農七戸伍長」の佐藤三蔵が七月に任命された。副総代は十年十二月に鈴木運治にかわるが、彼も伏見の居住者である。副総代は伏見の居住者から出す原則がたてられたようであり、この原則は総代人制にも踏襲されている。人数では圧倒的に屯田兵が多かったにもかかわらず、あえて伏見に一員を割りあてていることは、新旧の居住者の摩擦を避けるための配慮とみられる。