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非常時の出兵

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 戦争が勃発すると従軍するのは勿論である。最初の参戦は九州地方が戦闘の場となった西南戦争で、当初入地の屯田兵の大部分が現役兵として出陣した。次に二十七、八年の日清戦争従軍があり、すでに予備役期間であったが、当初入地屯田兵が約二割、あと八割は兵役相続者いわゆる屯田二世が出陣、三十七、八年の日露戦争では屯田兵から将校等に進んだ者が数人出征した。このうち西南戦争は入地後まもなくの出来事で、札幌のまちづくりに大きな影響を与えた。

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写真-9 西南戦争に出兵した屯田兵一行(北大図)

 十年二月、西南戦争勃発の報が届くと、開拓使は市中に巷説にまどわされないよう呼びかけ、琴似山鼻の両屯田兵が全員(事故の者を除く)出征することになったので、改めて「道路之訛言ヲ妄信シ、営業上ニ怠惰ヲ生シ候様ニテハ不相成、各自安堵平常之通、職業相励ミ候様」(開拓使布令録 明治十年)に告諭するとともに、一週間ほどたって再び同様の布達を戸長総代にまわした。
 屯田兵の出征に将士官が合わさるだけでなく、兵員外から開拓使工業局の定夫、職工、その他部局の小使、病院職員等九〇人程が給養係、弾薬持夫として加わったので、出征総員は六〇〇人をこえたであろう。それも札幌本庁から政府への強い働きかけで出兵が実現したようで、まず二月中に函館と小樽に小隊を出張、本隊は四月十日札幌発、小樽から船で戦地に赴き、転戦ののち終結をむかえ八月三十日東京着、ここで二十日ほど滞在し九月三十日札幌に帰着した。開拓使は九月二十四日「全ク平定ノ由」を市中に布達し人心の安定に努めたのである。
 西南戦争は社会の多方面に影響を及ぼしたが、直接の影響として三つあげておく。一つ目は戦病死者を多数出し、兵村再編の必要を生じさせたこと。公式記録に残る死者は三七人、負傷二〇人だが、伍長や卒が大部分で将士官はきわめて少なく、戦闘のあり方が憶測された。さらに札幌市民を不安におとし入れたのは、出征者がコレラに感染して帰ったことである。九州からの帰途船中で琴似兵村の東条敬次郎が死亡し、札幌帰着後も発病する者が続き、西郷病と呼ばれて伝染が恐れられ、兵員の死亡にともなう家族の生活維持が問題となり、この機会に隠居家督相続や兵階級の免官を願い出る者まで出て、家庭生活と中隊編成に大きな影響を与えた。
 二つ目は兵員と家族に対する米と塩菜料の給付を満一年間延長したことである。入地当初は三年間扶助の例則に基づいてなされたが、西南戦争出兵が四月から九月末までという開墾農耕最適期にあたり、実質一年間恒産の術を失ったことによる。開拓使屯田兵が東京に帰着すると間もなく、太政官の裁可を得ぬまま、この方針を発表し兵村の平静化に腐心した。既墾地は荒れ、新しい開墾は進まず、働き手の多くが戦病死した将来への不安をやわらげ、兵村再編への足がかりとしようとしたのであろう。これにより、八年入地者は十二年五月まで、九年入地者はその翌年まで扶助を給付されることになった。
 三つ目は屯田予備兵制度が実現したことである。屯田兵制発足時に懸案となった北海道在住者の内、居所に留まったまま屯田兵に編成される殖民兵型が、西南戦争でやっと出番を迎えるのである。政府は鎮台兵、近衛兵、屯田兵を可能な限り戦闘に投入したが、なお不安要素が多く、新撰旅団を編成することにした。開拓使はこれに北海道からの応募者を加えるべく募兵したところ六〇〇人を越えたので一大隊として東京に送った。彼らは在京のまま訓練に従い戦地へは入らず、屯田兵とともに北海道に帰った。緊急便法処置であるこの兵員を戦後に制度化し開拓使のもとに編成することとし、十年十二月屯田予備兵条例が成立、三年ほど存在したが、十三年十二月廃止がきまり解隊となった。