表-9 明治5年開拓使仮学校生および農業現術生(札幌・石狩・夕張郡) |
名 前 | アイヌ名 | 年齢 | 行 先 | 備 考 |
琴似又一郎 | マタイチ | 32 | 琴似村 帰郷 | |
古川伊吾 | イコレキナ | 34 | 札幌村 死亡 | |
能登岩次郎 | イワヲクテ | 24 | 仮学校 | 発寒村 帰郷 |
夕張安次郎 | アフンテクル | 38 | 夕張郡 死亡 | |
夕張鉄五郎 | ウタレハタ | 34 | 夕張郡 帰郷 | |
木杣宇七 | クソマウシ | 35 | 発寒村 帰郷 | |
佐野雷次 | ? | 21 | 仮学校 | 石狩郡 死亡 |
麻穀四郎助 | ? | 21 | 仮学校 | 石狩郡 継続 |
石川八之助 | ハチヤ | 23 | 石狩郡 帰郷 | |
半野六三郎 | イソレウク | 23 | 仮学校 | 札幌村 帰省 |
田山次郎 | タエアマ | 32 | 石狩郡 帰省 | |
矢間徳三郎 | ヤマトコ | 23 | 発寒村 帰省 | |
(六三郎妻)とら | トラフン | 17 | 仮学校 | 札幌村 帰省 |
(伊吾厄介)うの | ? | 13 | 仮学校 | 石狩郡 帰省 |
(岩次郎妻)もん | ウテモンカ | 17 | 発寒村 帰郷 |
『開拓使公文録』(道文5733)等より作成。 |
しかし七年六月、六三郎が兄の死を理由に妻とら、それに石狩出身で兄の「厄介」になっているうのを伴って帰省を出願すると、帰省組徳三郎以下五人、帰郷組又一郎以下二〇人に及んでしまった(開拓使公文録 道文五七八五)。しかも、帰省した者は再び上京せず、残った数人の者も八年八月、仮学校が札幌に移転して札幌学校になると大部分が退学帰郷し、卒業生中成績の良い者は官吏に採用されたが、多くは一年くらいの勉強でようやく片仮名が書けるくらいにすぎなかったという。
このような仮学校にみられるように、開拓使は、幕府時代とまったく異ならない「同化」政策を試み、風俗・習慣・思想等を日本人と同様に改めることを強制したところにアイヌ側の反発があった。その後開拓使は、急激な教育方針はやめて、そのころから次第に完備し普及してきた地方の小学校を通じてその目的を達成しようとした。
五年の学制頒布にともない、同年十一月、札幌及び付近村落に郷学または郷校を建てて教師を派遣し、翌年文部省の規則に準じて教育所と改めた。七年から八年にかけて道内各地で教育の制度が漸次整うとともに、各所に官公立の小学校が建ち、十三年には統一した小学規則を全道に施行することとなった。このような機運に動かされ、九年十二月、開拓使はアイヌ教育に関して、「旧土人教化ノ儀ニ付テハ是迄毎々相達候通り、何分ニモ誘導可致ハ勿論ニ付、兼テ戸長総代ヲ始教育所有之場所ハ教員等ヘモ懇々説諭シ、縦令速ニ他ノ人民ト並立スルニ至ラストモ漸々教化候注意可為致」(開拓使布令録)と布達し、札幌付近では十一年、対雁村に移住した対雁教育所が開設された(後述)。