ビューア該当ページ

仮学校とアイヌ教育

544 ~ 545 / 1047ページ
 アイヌ教育は五年三月、北海道開拓に必要な人材を養成するために、東京芝増上寺境内に開拓使仮学校が設置されたことによりまず着手された。同年六月、黒田次官の上書によってアイヌ一〇〇人余を上京させて教育することとなり、まず三五人を札幌をはじめ、小樽・高島・石狩・余市の各郡より募り、年少者は仮学校へ入学させて読書・習字等を習わせ、そのほかは青山にあった開拓使官園に通わせて、農業・樹芸・牧畜等を学ばせた。札幌から選ばれて上京したアイヌは、札幌村の伊吾、六三郎、六三郎妻とら、琴似村の又一郎(又一に同じ)、発寒村の徳三郎、宇七、岩次郎、岩次郎妻もんら八人がいた(開拓使公文録 道文五七八五、表9)。仮学校へ入校した琴似村の岩次郎の場合、漢籍は地理往来の習読、書道は通用書翰、算術は開平できる程度で、試験の結果中等上と評されている。また札幌村の六三郎妻とらの場合、養蚕、製糸、機織、和服仕立なども修業していた(同前 五七三三、五七八五)。
表-9 明治5年開拓使仮学校生および農業現術生(札幌・石狩・夕張郡)
名 前アイヌ年齢行 先備 考
琴似又一郎マタイチ32琴似村 帰郷
古川伊吾イコレキナ34札幌村 死亡
能登岩次郎イワヲクテ24仮学校発寒村 帰郷
夕張安次郎アフンテクル38夕張郡 死亡
夕張鉄五郎ウタレハタ34夕張郡 帰郷
木杣宇七クソマウシ35発寒村 帰郷
佐野雷次21仮学校石狩郡 死亡
麻穀四郎助
21仮学校石狩郡 継続
石川八之助ハチヤ23石狩郡 帰郷
半野六三郎イソレウク23仮学校札幌村 帰省
田山次郎タエアマ32石狩郡 帰省
矢間徳三郎ヤマトコ23発寒村 帰省
(六三郎妻)とらトラフン17仮学校札幌村 帰省
(伊吾厄介)うの13仮学校石狩郡 帰省
(岩次郎妻)もんウテモンカ17発寒村 帰郷
開拓使公文録』(道文5733)等より作成。

 しかし七年六月、六三郎が兄の死を理由に妻とら、それに石狩出身で兄の「厄介」になっているうのを伴って帰省を出願すると、帰省組徳三郎以下五人、帰郷組又一郎以下二〇人に及んでしまった(開拓使公文録 道文五七八五)。しかも、帰省した者は再び上京せず、残った数人の者も八年八月、仮学校が札幌に移転して札幌学校になると大部分が退学帰郷し、卒業生中成績の良い者は官吏に採用されたが、多くは一年くらいの勉強でようやく片仮名が書けるくらいにすぎなかったという。
 このような仮学校にみられるように、開拓使は、幕府時代とまったく異ならない「同化」政策を試み、風俗・習慣・思想等を日本人と同様に改めることを強制したところにアイヌ側の反発があった。その後開拓使は、急激な教育方針はやめて、そのころから次第に完備し普及してきた地方の小学校を通じてその目的を達成しようとした。
 五年の学制頒布にともない、同年十一月、札幌及び付近村落に郷学または郷校を建てて教師を派遣し、翌年文部省の規則に準じて教育所と改めた。七年から八年にかけて道内各地で教育の制度が漸次整うとともに、各所に官公立の小学校が建ち、十三年には統一した小学規則を全道に施行することとなった。このような機運に動かされ、九年十二月、開拓使アイヌ教育に関して、「旧土人教化ノ儀ニ付テハ是迄毎々相達候通り、何分ニモ誘導可致ハ勿論ニ付、兼テ戸長総代ヲ始教育所有之場所ハ教員等ヘモ懇々説諭シ、縦令速ニ他ノ人民ト並立スルニ至ラストモ漸々教化候注意可為致」(開拓使布令録)と布達し、札幌付近では十一年、対雁村に移住した対雁教育所が開設された(後述)。