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軟石・硬石の採掘

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 南区石山豊平川右岸の支笏溶結凝灰岩は札幌軟石、左岸の八垂別の石英安山岩は札幌硬石の産地で、建築材、玄関の石段、墓石などに使用され鉱物資源として重要なものであった。
 札幌周辺で石材の採掘が始まったのは明治五年三月である。本府建設にあたった大工棟梁の大岡助右衛門は、「諸所御普請二相用候見込」をもって採掘を出願しており(市中諸願綴込 北大図)、建物の基礎などに使用されたようである。またこの年に、「発足別硬石山発見、掘採ニ著手ス」(開拓使事業報告 第三編)とされている。以上は硬石であるが、軟石については八年に穴ノ沢(石山)において建築用軟石一九八五個が採掘され、その価格は四九九円四三銭三厘であった(同前)。これ以降の採掘量をみると、九年(一二〇五個 二二六円一〇銭四厘)、十年(四三一四個八六二円八〇銭)、十三年(二万六六二〇個 硬石一万八三九個 合計六五七三円七八銭四厘)、十四年(五万七三七〇個 七〇一六円一〇銭一厘)となっている。年を追うに従い採掘量が増大していることがわかる。
 採掘が本格化するにつれ石山から札幌区内へ運搬する道路も整備されてきた。九年七月十一日に完成した石山新道である。新道は間もなく馬車道として再整備され、十二月十三日に完成をみた(開拓使日誌)。この新道は山鼻村から真駒内まで三間幅をもち、長さ一二九三間、真駒内から穴ノ沢(石山)までは六間幅の一三六三間で、豊平川には馬渡船も用意されていた。
 硬石・軟石は建築用材として秀れ、防火や耐寒上からも開拓使では石造建築が奨励された。十年に水原寅蔵が石造の家屋を建築し、開拓使から褒賞をうけている(開拓使公文録 道文五八六三)。
 二十一年の穴ノ沢における軟石の採掘状況をみると表17のとおりである。
表-17 穴ノ沢における軟石の採掘状況
願人名許可年月期限坪数採掘高
山本嘉兵衛明治21年3月21年3月~22年2月5坪270切
永島弥平21. 620. 7 ~ 22. 6243000
逢坂福松21. 620. 7 ~ 22. 6352000
玉井渓一21. 1121. 11 ~ 22. 101503000
北海道庁統計書』第3回(明治21年)より作成。

 これによると四人の業者により二一四坪・八二七〇切の採掘が行われていた。明治十三、四年の採掘量にくらべて大幅な減少となっているが、このデータは願人の申請個数をもとにしており、実際の採掘量を示してはいないだろう。
 硬石・軟石を利用した石造建築が普及するのは二十五年五月五日に発生した札幌大火以後で、不燃建築として石造家屋・倉庫が多く建てられるようになり、札幌の町並の景観をかざる建築物となっていった。小樽運河に並ぶ石造倉庫も札幌産の石が多く使用されており、遠くは室蘭でも用いられていた。
 二十九年四月五日の『北海道毎日新聞』は、「積雪中札幌郡山鼻村より搬出せし硬石は非常に多く、重に小樽に回送し同港工事及石蔵築造等に使用する由にて、本年は一層人夫を増し盛に切出す見込みなりと」と、八垂別の硬石搬出の状況を伝えている。このころの採掘量は二〇余万とされ(同前 二十九年五月十九日付)、年々採掘量が増大していたようである。採石の運搬のために石山道に馬鉄を敷設する計画も二十四年にあった(同前 二十四年三月五日、五月五日付、その後四十二年に敷設された)。