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高騰する地価と家賃

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 札幌の市街地に居住する人びとは、年間を通じて移動が激しかった。ことに商人以外は融雪とともに仕事が開始される五月より地方出稼の職人や工事人夫が札幌を離れ、降雪とともに再び札幌に戻ってくるといった一つのサイクルをもっていた。このため全般に持家よりは借家住まいの人びとが多い傾向にあった。しかも、概して札幌の家賃は粗悪な家作の割に高いとの悪評判であった。たとえば二十九年の狸小路付近の九尺二間(三坪)の家賃が月三円以上もした。働きのいい大工でも一日四五銭程度の賃金しか得ていなかった(道毎日 明29・10・14)。
 二十五年の大火は、鉄道工事の竣工や西海岸の不漁と重なって札幌に不景気をもたらした。このため翌二十六年一月には空家が五〇余軒にもおよび、仕事もなく、収入のいたって少ない者や地方へ出稼に出る者は「合併居住」しているありさまであった。この時点では家賃も二、三割低落気味で、しかも大火前と比べ畳・建具なしの借家が多くなった。不景気は宅地をも一旦下落させた。
 ところが、日清戦争後の二十九年春頃より次第に状況が変化しはじめた。二十八年秋の段階では漁場や内陸部の出稼から戻った人びとが入居してもまだ借家に余裕があった。それが日清戦争後諸会社や工場の事業拡張に伴い札幌に建設関係者や職工たちが急増しはじめると、地価が三割から五割も値上がり、それに影響されて家賃も二、三割軒並値上がった。地価高騰の原因として、①人口増殖、②札幌付近の開発の進展、③第七師団、上川鉄道着工による人気、④全道の首都であり、将来ますます有望な地として永住者の増加、⑤気候温暖で暮らしやすい、⑥区内の宅地がおおむね有力家の手に入り売買不可、といった六点を当時の『北海道毎日新聞』はあげている。市街宅地の高騰は、近隣の村の地価をも押し上げていった。また月寒村のように、第七師団設置が明らかに影響している場合もあった。
 このように、日清戦争後の札幌は、事業拡張のため資本が大量に投入され、そこへ人びとが集まってきたため一大住宅難をまきおこした。三十年、札幌市街地価の急激な高騰のため前野長発等三人は地価査定を行い、南一条の賃貸価格標準を定め、土地は一坪二〇円~八円、建物は一坪二〇円~七円、石造・土造蔵は四〇円~二五円とした。また同年、札幌区役所地租徴収のため持家と借家を調査したところ、全世帯六四四二戸中持家は六四〇戸、残り五八〇二戸は借家または借地人であることがわかった。しかも、開拓使以来の地主は、大通では大村耕太郎、南一条では菊地喜八郎池田重吉今嘉吉小林喜助斎藤善次郎佐藤与平治、南三条では小黒仁三郎小村岩太郎小村巳之松小村はる、南四条では堀内龍太郎中村庄蔵谷藤芳太郎の一四人しかいなかった。明治初年の土地割渡から二十数年間にめまぐるしく人や土地所有の移動があったことが知られる。