信仰から発した寺社の例祭に欠かせないものに、手踊、相撲等の奉納と、人出をあてこんだ芝居、見世物等の興行があった。これらは多分に遊楽性を持ち合わせていたことはいうまでもない。ことに遊楽性の著しいのは、六月十四日から十六日にかけて催される札幌神社の例祭や、毎月二十七、二十八の両日成田山境内で催される縁日であろうか。
札幌神社の例祭は、六年の「当日は業を休み参拝又は遙拝するように」との達により、官衙、学校、会社等にいたるまで十五日は休業日であったので、かなり公共性の強い性格を持っていた。しかし、本来の信仰より発した性格も、二十年代の例祭の状況を新聞等で見る限り、かなり遊楽性の強いものに変化していた。札幌神社遙拝所では、子供の手踊や相撲が奉納される一方、近傍には見世物小屋や露店が並び、氷店やパン屋も繁盛していた(三十二年の場合、見世物小屋は創成川西側の南一条から三条の間に立並び、猿芸、催眠術、手品、細工人形、蛇、熊、活人形等の見世物を八銭から二銭で見せた)。また狸小路の芝居小屋や寄席では様々な興行が催されていた。これらは連日大盛況であった。ちなみに三十一年の例祭の場合、北海道炭礦鉄道の割引切符を利用して札幌停車場に降りた人は、十四日一九八一人、十五日四三三四人で計六三一五人と、前年よりはるかに多かったという。これは二十年代に同鉄道で、札幌神社例祭のために路線各駅より札幌へ直行する人びとの乗車賃を二割引にしたため、乗降客数が明らかとなったものである。この数字は鉄道を利用した人びとであるから、近郷近在から荷馬車や徒歩で出札した人びとが幾千人とあるところをみても、札幌神社の例祭の動員数たるや推して知るべしである。これは薄野遊廓へ登楼した遊興人員数や揚代金にも顕著にあらわれた。たとえぼ三十二年六月一カ月間に薄野遊廓へ登楼した遊興人員数は六八四一人、揚代金は一万七四三八円余にものぼった。これは同年ではないが前年五月一カ月間のそれが五七九一人、一万三六〇〇円余であったことと比べると格段に多いことがわかる(北海道毎日新聞)。
いまひとつ成田山の場合はどうであろうか。成田山は二十一年五月、成田山の不動明王仮安置所が中島遊園地への往来の要路にあたり、人の往来も多いところから、繁盛を見込んで毎月二十七、二十八の両日を縁日と定めた。新聞広告によれば、境内で小間物、植木、古道具、飲食物、諸興行などの縁日市を開くことにしたとある。こうして信仰と縁日市とを合わせ持つことにより、札幌区民の生活の中に自然に根をおろしていった。
札幌の社寺暦をみると、五月の三吉神社の例祭を皮切りに、同月の成田山、六月の札幌神社、七月の中央寺鎮守三社祭、八月忠魂祭、豊川稲荷というように夏の季節を彩る例祭が目白押しに続き、市中に活気と市民に娯楽・慰安とを与えていた。成田山の例祭について後に、「面白半分信心二分、後の三分は色気で持たす」(北海タイムス 三十六年六月三日)といわれたくらい、隣接している遊廓とも関わりがあった。成田山、中央寺、豊川稲荷はいずれも遊廓の背後にあり、例祭の人気と景気を支えたのも遊廓の存在が少なからずあったといえよう。狸小路の芝居小屋、寄席、それに中島遊園地で催される競馬会、物産共進会等、札幌は遊興の街としての魅力も合わせ持つにいたっている。