養蚕は、開拓使以来移住農家の経営の副業として奨励されてきた。明治二十二年、北海道庁は蚕業伝習所を設立して養蚕の取扱、蚕種の改良や病気の予防等を目指して伝習を行い、養蚕の普及奨励に努めた。
札幌の屯田兵村の一つ山鼻村では、入植と同時に養蚕が村の基幹産業に据えられ、二十年段階で全耕地面積一二三万坪余のうち七〇万坪が桑園であった。その桑樹数は培養桑一〇万四二〇本、野桑一九万二九五三本にも達した。
山鼻村の二十年の人口は一二四六人(男六五三人、女五九三人)である。そのうち約半数が宮城県、残りの五分の三が福島県会津、五分の二が山形、秋田、青森諸県出身者で固められ、気質も東北人の質朴にして衣食住を飾らず、男女ともによく労力に堪え、仕事に励むと同時に「頑固の慣習」を持ち続けていると評された。村内には養蚕室があり、季節になると兵員とその家族が寄り集まって昼夜養蚕に従事した。村では開拓使が札幌製糸場を設立した時、琴似兵村と同様村民を派遣し、養蚕・製糸・機織について技術伝習させていた。養蚕室は、ふだんは紡織場にあてられ、兵員の妻や娘たちが紬を織る場となっていた。しかもその製品は、「甚堅固にして市中売買する品の如く光沢ハなけれども丈夫向ハ請合にて売値ハ一端(反)金六円位帯地にて金三円位」にもなったという。
二十一年の養蚕農家数は、札幌区で一二戸、山鼻村を含む札幌郡で七八七戸の計七九九戸にものぼった。その産額は、札幌区・札幌郡合わせて十九年が三三二石、二十年が四一四石、二十一年が二七三石と、年によって異なった。農家にとって養蚕は、その年の気候や蚕の病気等に左右される場合が多く非常に不安定な事業でもあった。
札幌区や札幌郡で生産された繭は、多くが札幌製糸場(二十一年十月足立民治、今井藤七に払下げ)と安田製糸場(二十一年十月安田徳治に払下げ)に買い入れられた。札幌製糸場での全道からの買入高は、二十二年で四三三石余、二十三年で五七四石余、二十四年で六一八石余、二十五年で六九二石余となっており、二十六年の場合一〇〇〇石余を見込んでいた。これは、生糸の需要が年々伸びていたからである。山鼻村でも二十六年、これを受けて蚕業の拡張に努めている。
しかし、生糸の需要が伸びた一方で二十年代の札幌区や札幌郡の養蚕農家の数は、日清戦争を境に減少傾向を示した。それは、養蚕農家の担い手である屯田兵村で、日清戦争に際して出征兵士を送り出したことと関係する。二十三年に七八四戸あった養蚕農家が、二十九年には三四六戸となっている。ところがその産額をみるに、養蚕農家の減少とは逆に二十九年には六四八石余、三十年には六三〇石余と二十年前後よりは増加している。これは、養蚕技術の普及、病気予防が功を奏した結果一戸当たりの産額増加となったものである。
やがて三十年代の札幌の養蚕業は、屯田兵村の基幹産業という色彩は薄くなり、屯田兵村やその他一般農家の副業としてかろうじて営まれ続けるに至る。