十九年の道庁設置以前の札幌区内の消防組は、一組から三組までの区立消防組とほかに別手組と称する私立消防組があって計四組であった。この別手組は二十二年区立に編入されている。二十年一月、道庁理事官から札幌区長となった浅羽靖は、消防夫の厳選、器械の改良、組員の訓練をめざすなど消防組の改革をはかり、消防費予算を増額して器械設備を整えた。
二十一年三月道庁は、区町村の部落単位に消防組を設置させることとし、組員の資格、訓練、経費の郡区役所への報告義務を定めるとともに、すべて警察署の管理下に置いた。
二十五年五月の大火は、市街地八八七戸を焼失させる大惨事となった。この時被害区民から消防組への非難がわだかまりとなって、ついに同年十二月消防組による総代人岩井信六宅と北門新報社暴行事件となった。発端は二十六年度警備費(消防費)予算削減の発議を札幌区総代人会で岩井総代人が行ったことにあった。消防組の弊風を改めるべく出初式や消防の手当を廃止しようとする発言は、論議の末被服費の削減で議決したが、その総代人会議の経過を北海道毎日新聞社に対抗していた北門新報社が誤って単に消防経費を全廃すると報じたために消防組の憤懣が爆発した。事件は大量の消防組の逮捕者を出して終息したが、消防組の旧体質を脱皮させる必要に迫られていた。
二十七年二月九日、勅令第一五号で「消防組規則」が公布され、消防組の全国的統一をめざし、従来の政争の具からの脱皮や消防組の乱立を防ぐことがはかられた。札幌区では公立消防組の時代を迎え、何番組から第何部に編成替えし、組頭を一人置いた。しかし、消防費の予算計上が許されないため、組頭・部長は消防費を区会に要望できる政治力があり、区民の寄付要請に円滑性を持ち、区民の信望を担い、報酬の少ない組員に対しては時に私費も厭わない親分肌的な有力者が選ばれたという(札幌消防百年の歩み)。
「消防組規則」では、私設消防は一切廃止となったが、北海道の場合例外が認められ、豊平村、手稲村、白石村字厚別、札幌村青年会といった単位でも設立された。このほか会社などに自衛のための消防設置も認められ、三十一年には山形屋旅館に「山形屋消防方」が設置されている。