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音楽

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 いわゆる洋楽の導入は、キリスト教によるものと、学校教育によるものが主体であった。十六年九月、手宮・幌内間鉄道開業式で東京から音楽隊が来て演奏したが、石川正蔵の『公私諸向日誌簿』(北大図)同月十九日の項にこれについて「豊平館ニ於テ夜会、楽隊ト当所音楽連ト互ニ奏ス」とあって、地元の出演もあった。しかし地元のは時期からみて、洋楽器の演奏ではなかったようである。
 洋楽の団体としては、まず二十年に設立された北海禁酒会内に少年禁酒鼓隊が結成された。これは同会会頭の伊藤一隆らによるもので、楽器は縦笛、手風琴、ドラム類およびシンバル等であった。そして二十四年八月にこれを基盤として北海音楽会が結成された。同会は事務を北水協会内においたが、これは伊藤が同協会会頭であったことによると思われる。

写真-10 北海禁酒会少年禁酒鼓隊

 北海音楽会は正会員は会費を年額五円、賛助会員は同二円四〇銭を納入するものとし、会の音楽隊を求めに応じて派遣するものであった(道毎日 同年八月十四日付)。このため会では音楽生徒三〇人を募集し、十月十四日までに二一人の生徒を得た(同前 十月十五日付)。
 同会の活動は、したがって禁酒会活動と関わる場合が多かった。二十五年には北海禁酒会音楽会が開催されたが、そのプログラムをみると、北海音楽会楽手の名で吹奏楽が演奏されており、編成は管・打楽器であったようである。なお、当時の音楽会は和洋両楽によるものが多く、またスミス女学校(のちの北星女学校)の生徒の出演も多かった。
 北海音楽会はこのほか日清戦争中出征等の行事には街頭行進などを行い、その他慈善音楽会、三十一年の大水害には義捐金募集等の演奏旅行も行ったが、それと共に会結成からしばらくの間、月次会を開いたことが注目される。現在の表現では定期演奏会といえよう。二十四年十月分を『道毎日』によってみれば、曲名は不詳だが、曲種はマーチ、ポルカ、ワルツ、ファンタシー、オーベルチュール、ガロップ等と記されており、時間は正午から午後四時までと長く、かなり多くの曲目が演奏されたことを推察させる。
 このほか二十四年には同年結成の北海道教育会員十数人によって北海道教育会員音楽倶楽部が結成され、活動内容を「部員ハ音楽ヲ研究シ北海道教育会集会ノトキハ演奏ノ義務アルモノトス」(北海道教育会雑誌 一)と定めた。また教育者関係としては、北海道尋常師範学校教師として二十五年に成川熊雄がはじめて指導に当たったが、三十年に玉川瓶也が就任し、玉川は大正に至るまでの優れた指導者として大きな業績をあげた。さらに二十七年五月には札幌農学校生徒によってアコーディオン・バンドの札幌農学校音楽隊が結成され、その他学校、教会等でオルガンを備えつけるものも次第に多くなった。
 ところで当時の演奏のレベルはどうだったのであろうか。三十一年八月、札幌での教会の晩禱に立ち会ったロシア正教のセルギィ神父は、その巡回記に「ああ何という歌であったことか、まったく肉体的痛みを覚えさえした」(宮田洋子訳 掌院セルギイ北海道巡回記)と記している。日本の伝統的発声、歌いまわしを身につけた人びとが歌えば、そうなるのは当然であろう。