札幌は寔(まこと)に美しき北の都なり。初めて見たる我が喜びは何にか例へむ。アカシヤの並木を騒がせ、ポプラの葉を裏返して吹く風の冷たさ。札幌は秋風の国なり、木立の市(まち)なり。おほらかに静かにして人の香よりは樹の香こそ勝りたれ。大なる田舎町なり、しめやかなる恋の多くありさうなる郷(さと)なり、詩人の住むべき都会なり。此処に住むべくなりし身の幸を思ひて、予は喜び且つ感謝したり。あはれ万人の命運を司どれる自然の力は、流石に此哀れなる詩人をも捨てざりけらし。
札幌に似合へるものは、幾層の高楼に非ずして幅広き平屋造りの大建物なり、自転車に非ずして人力車なり、朝起きの人にあらずして夜遅く寝る人なり、際立ちて見ゆる海老茶袴(えびちゃばかま)に非ずして、しとやかなる紫の袴なり。不知(しらず)、北門新報の校正子、色浅黒く肉落ちて、世辞に拙(つたな)く眼のみ光れる、よく此札幌の風物と調和するや否や。
札幌に似合へるものは、幾層の高楼に非ずして幅広き平屋造りの大建物なり、自転車に非ずして人力車なり、朝起きの人にあらずして夜遅く寝る人なり、際立ちて見ゆる海老茶袴(えびちゃばかま)に非ずして、しとやかなる紫の袴なり。不知(しらず)、北門新報の校正子、色浅黒く肉落ちて、世辞に拙(つたな)く眼のみ光れる、よく此札幌の風物と調和するや否や。
(筑摩書房版 石川啄木全集第四巻)
啄木の見た札幌は「豊かに稔れる石狩の野に、雁はる/゛\沈みてゆけば、羊群声なく牧舎に帰り、手稲の嶺黄昏こめぬ」(農科大学恵迪寮明治四十五年寮歌)と歌われる中にあり、「飽く迄も内地と違った、特有の趣味を保って居る。諸国の人が競ふて入込むに従って、雑然として調和の無い中にも、猶一道の殖民的な自由の精神と新開地的趣味」(石川啄木 北海の三都)が息づいていた。
こうした殖民的な自由の精神とか新開地的趣味を「内地」的基準に沿って取捨し統合していこうとする国の政策は、日露戦争後の財政建て直しのもとで確実にすすめられた。区町村の財政難を住民に自覚させ、産業奨励、共有財産造成を義務付け、町村是の作成を指導するかたわら、旧暦の慣行的祭礼を政府の定める祝日に代え、村の鎮守を合祀して国家神道と結び付け、戊申詔書は「華を去り」「勤倹」であることを国民に求めた。自発的に生まれてきた各種の団体を、国家的目的に沿った半官半民の修養団体に再編成していくのもこの時期の特徴といえる。青年会、在郷軍人会、報徳会、産業組合、農会、婦人会等々がその方向に進んだ。こうした政策を地方改良運動と呼ぶが、札幌もまたその枠外にあることを許されず、一面からすると「内地」風に整備され、他面地域性や独自性が失われる結果となり、特に札幌では経済基盤が薄弱であったので、その形式的な維持は容易でなかった。
漁業を中核に据えて営まれてきた北海道経済は、農業の進展、土功組合法の公布、拓殖銀行の設立によって、漁業から農業へと転換し、三十三年には農業の生産額が首位となった。三十九年工業生産額は漁業を追い抜き、大正九年さらに農業をも抜いて北海道第一の生産額を占めるに至るが、この間農業も着実に進展し、同年北海道産米百万石達成の祝賀会が催された。一方鉄道の拡大は目覚ましく、小樽を中継して札幌と函館は直結し、青函連絡船により本州の鉄道網に繋がり、札幌を中心とする複線化により輸送量は増大し、釧路、網走、稚内へと線路は延び、交通通信網の整備と石狩川治水事業の開始は北海道における札幌の地位を高めこそすれ、弱めるものではなかった。
しかし、札幌の経済力はいたって低かったといわざるを得ない。大正二年度における営業税の課税算定資料によれば、札幌区の物品販売、銀行、運送、飲食、旅宿、仲立等の営業総額は一七六二万円余である。函館区は三九〇四万円、小樽区が三五三〇万円だったから、両区とは大差があり、特に卸売業、銀行業、運送倉庫業で〝汽車に一二三等の差あるが如〟き違いを見せている。こうした人口が多く経済力の低いまちはいかにして成立したのか、そこでの生産、流通の実態、特に近隣の経済都市小樽との関係はどのようなものであったか、本巻第三・四・五章でこれらの課題を追究しようとした。
区制期の折り返し点、もしくは中間時は明治四十三、四年にあたる。いわば明治の終焉を間近にして、札幌区は前半の諸問題を消化しつつ後半の新しい階段を登り始めようとしていた。それを象徴するような出来事として、道都論の中核問題であった道庁の札幌立地に一応の結論を得たこと、そして区勢調査に取り組み、未来の展望を開かんとしたことを挙げることができる。この時、皇太子を札幌に迎え、区の徽章を制定し、区史を完成させたことも含めることができよう。
区の徽章は四十四年八月に制定された(図1)。中央の五星形は北斗星を表し、片仮名「ホ」をもって北方を意味付けている。その外側は漢字「札」の字を三線に図化した円形で囲み、さらに雪の六角結晶をもって全体をまとめたもので、北海道の中に輝く札幌を雪華に因み表徴した。
図-1 札幌区徽章(明44.8制定)
皇太子の行啓は四十四年八月に実現した。のちの大正天皇である。二十五日軽川(手稲)前田農場を経て札幌駅に着き、豊平館を宿舎として、道庁、農科大学、同博物館植物園、師範学校、札幌中学校、高等女学校、女子職業学校、北海中学校、札幌神社、農事試験場、旧山鼻兵村、物産陳列場、競馬場、製麻会社、麦酒会社、月寒及び真駒内種畜場、二五聯隊を視察し、三十日江別へ向かった。なお、大正十一年七月にも皇太子の行啓があった。のちの昭和天皇である。十一日札幌に着き、十四日旭川へ向かう間、前皇太子とほぼ同様個所を視察したが、全道青年団陸上競技大会に出席したこと、今回も旧山鼻兵村を訪れ、「行啓通」の地名を今に残したことは特記されよう。
『札幌区史』の編纂は区の事業として、伊東正三に執筆を委嘱し、四十四年七月出版された。一〇二九頁の大冊で、その内容は今日も高く評価され、貴重な史料となっているが、伊東の執筆にかけた情熱は必ずしも報いられたとはいえない。