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町村役場

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 一、二級町村の執行機関として役場を設置し専任職員を配属した。たとえば二級町村制発足当初の明治三十五年、豊平村役場では村長のもとに一~三科の業務分担を定め、書記四、附属員一人で執務し、収入役は翌年の任用である(豊平町史)。また大正九年白石村の場合をみると、村長収入役各一、書記四、書記補二人で(白石村誌)、他村もほぼこの程度の規模で村行政にあたったといえる。助役は一級町村にならなければ置かれなかった。
 二級町村を統括代表し行政事務を担任するのが町村長で、道庁長官の任命による戸長からの継続者が多かった。そのため地元事情に疎く、ややもすると住民との意思疎通を欠き、排斥運動に発展することがあり、一年に二、三人の村長更迭をみた例もある。とはいえ藻岩の御子柴村長は一二年、琴似の清水村長は二カ月余の事務管掌者をはさむが区制期後を含め二六年にわたって在任し、琴似中興の祖と呼ばれた(琴似町史)。これら町村長の異動は表8のごとくであるが、不明確な点があり後日の修正を待ちたい。

表-8 区制期の町村長

 町村役場の位置と庁舎は発足時に戸長役場をそのまま引継ぎ、のちに変更せざるを得ない事態がしばしば生じた。明治四十三年豊平、藻岩などの町村の一部を札幌区に編入したので、その役場位置が札幌区内になってしまったのも一例であろう。豊平町では、札幌区内であっても住民が利便で町全域の連携が取りやすければ妥当と判断し、そのまま存置しようとしたが、道庁はこれを許さず、移転先を二転三転させた結果、大字月寒村三二番地―一へ新庁舎を建て位置変更した。それを不満とする平岸地区住民は、明治三十八年来抱いてきた三大字の独立構想を再燃させ、分村運動を展開するが実現しなかった(豊平町史)。一方の藻岩村は大字円山村三七番地の民有地を借用して位置変更し、ここに円山公園内にあった御料局養樹園の管理事務所の払下げを受けて移築し新役場庁舎にあてた。この建物は朝鮮の政客金玉均が一時滞在していたと伝えられる(円山百年史)。
 琴似村でも役場位置の変更をめぐる紛争が続いた。二級村になって「村役場の位置は琴似村にして、新琴似、篠路へは距離遠く一方に偏在の傾向あるより、新琴似へ役場を移転せん」(小樽新聞 明41・11・14)とする運動が起こり、「新川を以て画し、南北の民心隔離し独立割拠の風あり」(北タイ 大5・10・8)、二村に分轄することにほぼ決まった。大正六年村長になった清水凉は大乗的立場から旧琴似兵村側と旧新琴似篠路兵村側の調停をはかり、大正九年ついに役場位置を大字琴似村字八軒に変更し、新庁舎を建築して分村を回避した(琴似町史)。清水は後日次のようにその経緯を述べている。
 私は紛争の解決として、交通機関を中心とし停車場附近を適当と認め、改築の財源は村民の負担増徴を避け基本財産を財源とし、その他は理事者に一任してもらふべく、新琴似、篠路方面の議員に再三懇談しました結果、漸く諒解を得ましたので、役場の候補地としては当時の地主安孫子、斉藤両氏に土地分譲の内諾を求め、愈々位置指定認可申請のため村会に提出しましたところ、一部反対はありましたが大多数を以て可決しましたので、直に道庁へ認可申請をしたのでありました。
(内館泰三筆記史料一〇)

 このように役場の位置は、その町村の運営、住民生活、そして将来の発展に大きな影響を及ぼすきわめて重要な課題となっていった。