札幌においても、キリスト教界、特にプロテスタント諸教派の主流は社会の有力者層と結び付く傾向があり、国家の統治体制の一環にも容易に位置付けられることになった。その動きを、明治三十七~三十八年の日露戦争への対応と、前述の大正四年以降の協同伝道の展開のなかに読み取ることができよう。
日露戦争では、全国的にキリスト教界の大勢は、東洋の平和と国益のためとの理由を掲げ、挙げてこの戦争を支持し協力体制を敷いた。一方に内村鑑三・安部磯雄らが非戦論を唱えたが、一部の勢力に留まった。札幌でも戦争支持の活動がキリスト教界でも起こり、その中心的な行事として、三十七年三月十二日と五月七日の両度に日英米人聯合音楽会が開催された。これは、宣教師ジョン・バチェラーが総代となって、在札のキリスト教関係者と在札英米人が共同して開催したもので、合唱・琴・ハーモニカ演奏・英語唱歌・謡曲、さらにはバチェラーのバイオリン独奏などがあった。二回の集会で入場者は一七〇〇人を越え、益金三六五円が軍人遺族救護などのために赤十字社その他へ贈られた。バチェラーは熊送りを例に、ロシアの大熊が満州に爪をかけ、それを仁侠なる猟夫の日本が征伐する、これは誠に当然だと演説した。また同年七月十六日に開催された北海道宗教家大会は、一〇〇〇人以上を集めたというが、仏教・教派神道各派とともに、キリスト教関係ではバチェラーその他聖公会・組合・日基・美以教会の牧師・宣教師が発起人となった。大会は一連のキリスト教界の動きに刺激され計画されたもののようで、宗教界が園田安賢北海道庁長官をはじめ道内の官界・財界・教育界指導者の支援の下、国家の施策のためにはじめて組織された。日本基督教会の清水久次郎牧師は「露国は建国以来侵略主義を以て国是とす是れ天地の公道宇宙の大則と相容れざる所也」とし、「我国が露と戦ふ人道の為めのみ平和のためのみ」(北タイ 明37・7・20)と、日本の正当性を演説している。
清水の主張は札幌のキリスト教界をほぼ代表していたと見られ、英米出身の外国人宣教師も、日本の開戦趣旨や戦争そのものに疑義を持つことはなかったようである。十月にはさらに教会の合同主催で後備大隊犒軍音楽会(こうぐんおんがくかい)が、また十二月には北星女学校が同じ趣旨の音楽会を開催した。ミッションスクールの同校は音楽会のほか、慰問袋の発送などで「銃後」を支える姿勢をとった。
一方、札幌でも非戦論を主張した内村鑑三、また新渡戸稲造の影響もあって、僅かながら戦争を不正とする非戦の立場を表明する人がいた。独立教会の牧師宮川巳作は「恐れ憚る所なく平和の福音を説」く、と『札幌独立基督教会沿革』に記された。また美以教会の石沢達夫(みちお)が教会の青年会で非戦論の議論をたたかわせ、同教会の飯田雄太郎(札幌農学校画学講師)は非戦論の言動を新聞が問題にしたことから解職させられた。また組合教会の棧敷(さんじき)新松は北海英語学校の教師であったが、戦争に対する態度をめぐって校主と対立、戦後、職を辞めた。このほか『平民新聞』の読者のグループなどが読書会を開いていた(松沢弘陽 非戦を訴えた札幌市民たち)。しかしこれらの運動は札幌のキリスト教界の大勢とはならなかった。
札幌の教会は戦争協力の姿勢を示したにもかかわらず、この間教勢が一時停滞した。札幌での伝道が再び目覚ましい前進を見せたのは、大正四年初夏の協同伝道の展開であった。
全国協同伝道は、前述のとおり世界教会一致運動の一環という国際的契機を持ち、大正三年から六年にかけて取り組まれたものであった。札幌では第一次世界大戦の勃発や準備不足も感じられて、翌四年六月二十六日~二十九日に実施された。大挙伝道のときとは異なり、『北海タイムス』が「名士集る基督教協同大伝道」(6・2)と報じたように、道外から多数のクリスチャンの「名士」が来札し講演会の主役となった。来札した講師は、井深梶之助(いぶかかじのすけ)(明治学院総理)・植村正久(東京・富士見町教会牧師)・江原素六(貴族院議員)・森村市右衛門(実業家)・広岡浅子(銀行家)らであった。札幌では前年大正三年七月に準備委員会を結成し、農科大学長佐藤昌介を総委員長とし、各専門委員を設け、札幌のプロテスタント諸教派が挙げてこれを迎える体制をとった。
協同伝道の対外的な主張は、井深梶之助が新聞記者に対して表明したように、「現今我国の道徳に至大の缺陥あるを感じ此缺陥に対して基督教徒は一大使命を帯び斯かる缺陥を救済せん」というところにあった。井深は、わが国の人心が利害損失、自己中心的、逃避的刹那的快楽主義に傾いており、これに対し「天地の生ける神」「正義の神」を知らしめなければならない、「神を畏るゝは智恵の創めなり」(北タイ 大4・6・27)と語った。
集会の中には逓信局や鉄道管理局、製麻会社、今井呉服店、区教育会などの主催もあり、有志招待会では西久保弘道道庁長官が挨拶するなど、協同伝道は区内の官・財・教育界の支持を得て行われた。集会の日数は四日間であったが、前後二五回の集会を精力的に開催し、聴衆の延べ人数は八七五〇人、自発的な求道申込者は一七七人(ほかに北星女学校生徒など五〇余人)と数えられた。このほか狸小路などでは路傍伝道も実施された。その成果は「各方面に大なる感化を及ぼし、札幌紳士淑女の生活は将に一変せんとするが如し、或は申合せて禁煙断行を決せし者あり、或は涙を以て傾聴せし婦人あり、信仰生活に最後の希望と慰安とを求むるの精神は今や北の都に漲りつゝ伝道の門戸は広く各方面に開放せられたり」(北光 第一六号)と総括された。
日露戦争から協同伝道の頃にかけて、教会は区民の各層に信徒を増やし浸透していった。三教会同によって全国的にもキリスト教が国家から有用な存在として認められるようになった時期でもあり、札幌区内の指導者層・有力者層との結びつきを一層強めることとなった。