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北海道帝国大学と芸術活動

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 札幌農学校は明治四十年に北海道帝国大学となるが、大正期には北大は欧米文化の発信地であった。それは音楽でいえば、洋行帰りの教員がもたらしたピアノやバイオリンなどの洋楽器による、桑園の大学村のサロン的な演奏会や(時任正夫 博士村の音楽事情)、美術でいえば、有島武郎黒百合会の活動、あるいは関東大震災後の外山卯三郎を中心とし、文芸美術雑誌と銘打たれる『さとぽろ』(全巻が北海道立近代美術館に所蔵)の出版や、札幌詩学協会演劇部の活動といったものに、欧米のモダニズムの先端をみることができる。
 理系の大学であった北大の文化・芸術活動の盛行について、『さとぽろ』の同人でのちに北大予科の教授となる伊藤秀五郎は、
大正時代には、北大には内村鑑三、新渡部稲造、志賀重昂から有島武郎早川三代治などを生んだ学風の名残りがあって、北大を一種の教養大学(昔の欧米流のカレッジ)ぐらいに心得えて選ぶ青年が、かなりいたのであった。大正十年に北大の学生の手で相ついで発刊された「平原」「氷河」「歩み」「とどろき」「北大文芸」などの文芸活動は、そういう精神的文脈を背景として発動したものである。
(「さとぽろ」懐古)

と回顧する。
 「教養」主義の精神は、教員でいえば北大の水産専門部教授時代に『さとぽろ』を編集し、演劇顧問となった西村真琴(のちに大阪毎日新聞学芸部長)の存在にもあらわれる。西村は、『さとぽろ』第三号(昭1・8)に、インドの神牛を描いた版画「バンジヤラスの祈」と詩「広東にて」で登場し、第一九号(昭2・12)を最後に大阪毎日新聞に去るまで、毎号、版画や詩や散文を掲載する。
 『さとぽろ』の創作版画には、伊藤義輝・服部光平の「風景や静物等身辺のものに題材を求めたもの」、服部光平・西村真琴らの「詩的イメージに着想を得た象徴主義的なもの」、外山卯三郎の「抽象版画」の三種があった(西村勇晴 北海道の「創作版画」)。
 北大予科の学生、外山卯三郎(大正十五年に京大文学部美学美術史学科に転じる)の活動は二年あまりながら大きなインパクトを与えた。大正十四年十月の第一回道展に「総合的第五級解覚主義的画面構成による自画像」を出品し、「人間としての芸術的活動に於ける純粋意識的作用による創造」を重視する(樽新 大14・10・15)。同年十一月一日~三日まで行われる、「札幌詩学協会無審査洋画展」は実験的な試みが世評を賑した。無審査型式によるダダ的前衛絵画の展覧会で、外山の「構成的構図と空間的調和」なる作品は「空罐ばかり」でできており、新聞は「物の怪でも出かねまじい展覧会である」(北タイ 大14・11・13)と世間のうけとめ方を伝えた。外山は、無審査で誰でも出品できることが、既成画壇の腐敗を廃する「理想的な美術展覧会」と論じる(樽新 大14・10・20)。
 ヨーロッパの抽象絵画が、合理主義に裏づけられ必然的に生成したのとは違って、日本の抽象絵画は形式のみが移入された(大熊敏之 日本の抽象絵画 一九一〇~一九四五)。のちの前衛絵画に先駆する、この時期の外山卯三郎のダダイズムについても同じことがいえるのではないか。大正十三年の黒百合会の第十七回展覧会に色紙を切って貼りつけたコラージュ「相対性原理」を出品した出来事を、「新しさと知識欲に燃えてゐた私達は、貪る様にこれ(欧州の新しい絵画運動)をとり入れることに急であつた(中略)現在思ひ出せば苦笑を禁ずることが出来ない」と、外山自身が回顧している(黒百合会回顧録 一九三一年)。
 しかし、匠秀夫が評するように、のちに東京において外山卯三郎三岸好太郎に対して、理論やポエジーの圧倒的影響を与えた。たとえば三岸は「感情と表現」(昭8・1)のなかで、クラシックな画家が黒色の陰影により物の量感を出していたのに対し、外山の『新構図法の研究』の補色の原理を援用しつつ、「最近の芸術主義」は「色彩の齎す感情、色彩の価値の対比によって量感を表現する方法を考へ得た」と論じる。あるいは、昭和八年にフォーヴィスムからコンポジションの構成や線条表現へと作風を革新する三岸に導かれて北海道独立美術作家協会ができることとなった、その地域の受け皿を考えるとき、わずか二〇歳になったばかりの青年外山が引き起こした造形上の反抗運動は、札幌に確かな足跡と外山卯三郎をめぐる人脈を残した。

写真-7 三岸好太郎「オーケストラ」(昭8)