表6は、入場料が徴収された札幌警察署管内の演劇および諸興行の上演延べ日数(非営業のデータは別にある)である。札幌警察署管内は、札幌市、豊平町、札幌村、白石村、藻岩村・円山町、琴似村、篠路村、手稲村、広島村、恵庭村、千歳村の市町村を含む。大正十一年に延べで二〇〇〇日、上映された映画は、日中戦争がはじまる昭和十二年には三倍の約六〇〇〇日となっている。演劇の延べ日数は、昭和六~八年に四〇〇日を超えている。浪花節・浄瑠璃は大正から昭和にかけて漸減している。ここでいう演劇とは、数の上では新劇よりも圧倒的に伝統的な歌舞伎・芝居の類が多かったであろう。そして興味深いのは、曲馬、曲芸、剣舞、奇術、相撲とその多彩な大衆芸能のありようである。こうした見世物、大衆芸能は、季節としては集中的に、札幌祭の時にジンタの音とともにやってくる。表6をみると、見世物は大正期から昭和初年にかけて、五分の一ほどに激減している。
表-6 札幌警察署管内の演劇および諸興行の上演延べ日数 (営業) |
年 | 活動写真 | 演劇 | 浪花節 | 浄瑠璃 | 琵琶歌 | 剣舞又手踊 | 曲芸又手品 | 曲馬又競馬 | 角力 | 見世物 | 演芸会 | 歌曲講談落語 | 其他 |
大11 | 2,281 | 69 | 139 | 35 | 4 | 6 | 133 | 18 | 56 | 203 | |||
活動写真 | 演劇 | 浪花節 | 浄瑠璃 | 琵琶 | 剣舞手踊 | 曲馬曲芸 | 魔奇術手品 | 落語 | 和洋音楽 | 演芸興行其他 | 観物興行其他 | ||
昭 5 | 3,643 | 340 | 101 | 31 | 12 | 15 | 34 | 59 | 36 | 12 | 139 | 20 | |
1.札幌警察署管内(札幌市,豊平町,札幌村,白石村,藻岩村,琴似村,篠路村,手稲村,広島村,恵庭村,千歳村)。 2.『北海道庁統計書』より作成。 |
この問題は、大正十一年十一月十九日に北海道庁令「興行場及興行取締規則」が定められ、「公安ヲ害シ風俗ヲ紊ス虞アル言辞、所作、扮装其ノ他ノ行為」が厳しく取締まられ、さらに大正十三年三月七日には、演劇興行が常設の劇場以外では禁じられたことと関わるだろう(北海道庁公報)。昭和二年の札幌祭のお祭興行では、拳闘柔道試合や松村曲馬ほかの見世物において、興行師が入場料以外に仲銭をとったとして、興行取締規則に違反し一〇円の罰金を科せられている(北タイ 昭2・6・17)。なお戦時下の昭和十五年五月二十二日には「興行取締規則」が改正されている。
表7、札幌警察署管内の活動写真・演劇・寄席(演芸)の延べ入場者数からは、活動写真の隆盛と演劇の衰退が読み取れる。郡司正勝が回想するように、大正期の子供時代に札幌劇場(南3西1)などに出入し、札幌のあちこちで様々な歌舞伎や芝居が行われ、芝居が身近にあった。こうした状況は、昭和に入って変化してゆくのである(私のなかの歴史 飯塚優子 札幌と演劇)。このことは表9で、大正十二年に男二九人、女四人いた俳優が昭和八年には〇人になっていることから明瞭である。札幌の劇場にいた座付きの役者が昭和にはいなくなるのである。札幌で最初の芝居小屋である秋山座(明4創設)を引き継ぐ大黒座には座付きの役者もいたが、大正七年に錦座と改名され、映画常設館になる。大正後期の芝居小屋は、大正十年から十二年まであった西田座(南5西4)と、須貝富蔵の経営する札幌劇場であった(中村美彦 札幌最初の劇場・秋山座、杉本実編 札幌の劇場の記録)。
表-7 札幌警察署管内の活動写真・演劇・寄席 (演芸) 入場数 |
年 | 活動写真 | 演劇 | 寄席(演芸) |
大11 | 642,799人 | 122,886人 | 51,088人 |
なお表9の大正十二年に札幌で男女合わせて一九人いた法貝(界)節の遊芸稼人とは、筝、三味線、太鼓などの奏者が派手な印半纏で門付けした芸人であった(日本国語大辞典)。遊芸師匠の内では、三味線が減り、踊りの師匠が増えている。
表-9 札幌警察署管内の遊芸人調 |
遊芸師匠 | |||||||||||||||||
踊 | 三味線 | 琴 | 尺八 | 薩摩琵琶 | 筑前琵琶 | 其他 | 計 | ||||||||||
男 | 女 | 男 | 女 | 男 | 女 | 男 | 女 | 男 | 女 | 男 | 女 | 男 | 女 | 男 | 女 | ||
大12 | 1 | 7 | 3 | 45 | 2 | 15 | 14 | 0 | 5 | 0 | 6 | 0 | 21 | 9 | 52 | 76 | |
遊芸稼人 | 其他 | ||||||||||||||||
義太夫 | 落語 | 浪花節 | 源氏節 | 法貝(界)節 | 其他 | 計 | 角力 | 俳優 | |||||||||
男 | 女 | 男 | 女 | 男 | 女 | 男 | 女 | 男 | 女 | 男 | 女 | 男 | 女 | 男 | 女 | ||
大12 | 5 | 3 | 1 | 0 | 7 | 1 | 1 | 0 | 15 | 4 | 6 | 2 | 35 | 10 | 2 | 29 | 4 |
1.札幌警察署管内(札幌市,豊平村,札幌村,白石村,藻岩村,琴似村,篠路村,手稲村,広島村,恵庭村,千歳村)。 2.『北海道庁統計書』より作成。 |
表8、札幌警察署管内の人口一〇〇人に対する入場数の統計からは、一人当り年間何回くらい映画や演劇を見たかがうかがえる。大正十一年に一人当り年に三回みていた映画は、昭和十四年には年間一人でなんと約一三回も観るのである。これは子供や老人も含めての数であるから、若者の回数は驚くべきことが推測される。まさに映画は娯楽の王者であった。
表-8 人口百人に対する入場数 |
年 | 活動写真 | 演劇 | 寄席(演芸) |
大11 | 310 | 71.7 | 29.87 |
1.札幌警察署管内(札幌市,豊平町,札幌村,白石村,藻岩村・円山町,琴似村,篠路村,手稲村,広島村,恵庭村,千歳村)。 2.『北海道庁統計書』より作成。 |
ここで留意すべきは、日中戦争下で映画の観客動員数が最高になる現象である。更科源蔵がいうように、単に麻雀など他の娯楽が禁止されたことが要因で「映画館への殺到」が起こったのではないだろう(北海道映画史)。第四章四節図9で明らかなように、日中戦争勃発から昭和十五年まで狸小路のビヤホールの売上は伸び続け、またツーリズムも全国的には盛況であった。そして時期的には後になるが、昭和十八年の正月の様子を伝える記事で、「都市の料亭、カフェーは言語に絶した繁盛ぶり」を示したという(道新 昭18・1・9)。これらのことを考えると、日中戦争下の映画の盛況は、従来の文化・娯楽の戦時統制論では解けない課題である(文化とファシズム)。
一方、表8から演劇(営業)は大正十四年に一人当り年間約七回観ていたのが、日中戦争期には年間、五~六人に一人が観劇するにすぎなくなる。
また周辺農村の素人の地芝居の篠路歌舞伎(非営業)も、大正十年に回り舞台つきの烈々布倶楽部を完成させた頃を頂点に、昭和に入ると陰りをみせる。周辺農村では祭典余興に映画上映が激増し、「娯楽面ではラジオの出現や、交通網の充実で札幌に出かけ手軽に映画を楽しめる」状況となる。青年層が歌舞伎から離れ、昭和九年十一月二十三日の花岡義信(大沼三四郎)の引退興行を最後に消滅する(中村美彦 篠路歌舞伎ノート)。
写真-11 花岡義信引退興行(篠路歌舞伎,昭9.1.23)