白雪会は知性的な月刊雑誌と評価されていた『婦人公論』の読者グループで、全国一四グループの中で最も活発に活動していた。リーダーの山下愛子は戦時下雑誌停刊後も会合を続け、終戦直後の十一月には札幌初の女性弁護士菅井俊子(開業は十月)を囲む座談会を開いた。十二月には日米交流の夕べを友の会と共催して、赤十字奉仕隊員・〝星条旗〟紙記者ら七人の米軍将校と、家庭生活をテーマに三井クラブで懇談した結果、「民主的な婦人の集まり」としてクリスマスに招待された。迎えのトラック二台で約四〇人が月寒のニューヨーク部隊(第七七師団三〇七部隊)に行き歓待され、翌年二月には米軍人の招待で「日本婦人は今後どういう考え方ですすむべきか」懇談するなど、交流を深めた。『婦人公論』は二十一年に復刊し、白雪会はその年の十一月号にグループ復活第一号の便りを送り、九月に来札した同誌主幹の谷川徹三を招いて公開懇談会を開いたことを伝えた。会の目的は女性の向上、新生活発展を掲げていたが、戦後は「おもに文学を通じて(中略)女性の文化水準の向上をはかる」となった(白雪会45年のあゆみ)。
友の会は『婦人之友』の読者会で、家事の合理化、女性の向上をめざした。更科駒緒・高倉ときもリーダーを務めている。二十年は「細々と例会・委員会をつづける」と記録にあるが、二十一年十月、北大中央講堂で東京から星野すみれなど五人を招いて引揚者援護のための音楽会を開き、また洋裁講習を再開した。二十四年から農村生活学校や、新生活展覧会の開催に取り組み始めた(札幌友の会五十年のあゆみ)。
白雪会と友の会は「食糧危機打開の晴着供出運動」にも参加した。二十年十一月十七日、矯風会本部の久布白落実が発足直後の婦人協力会(昭21・3解散)でこの趣旨を訴え、ラジオで中継放送された(婦人新報 昭20・12)。札幌でも十二月二十九日、矯風会・仏教婦人会・女子大や市内各女学校の同窓会など十数団体の代表者約三〇人が集まり、キリスト教連合婦人会の報告後、市内全女性が力を合わせることとし、委員長に安孫子八重(北星女学校同窓会長)を選んだ(道新 昭21・1・8)。日本基督教団北海教区常置委員会も三月二十六日、安孫子らの要請に応えて二人の委員を応援に推薦した(北海教区常置委員会記録)。約半年後、遠くは函館・釧路などからも寄せられた振袖・帯・風呂敷など二〇〇〇点が、進駐軍の好意で東京の本部に届けられ、近くアメリカのキリスト者婦人会に送られると報道された(道新 昭21・7・19)。外米輸入促進にと集められた絹物が果たして成果をあげたかは、定かでない。
二十二年九月、矯風会の佐々辰子・清水シズ(共に支部長経験者)・小笠原貞子(清水の娘)の三人は「主食を酒につぶす事を本年丈でも中止して頂く様にと秘書課長、道会議長に面談」した(婦人新報 昭22・10)。まだ食糧難で活動も困難な時期、会の目標「平和 純潔 廃酒」への一つの取組みといえよう。二十三年十月、本部の竹上正子が道庁主催の純潔教育研究会講師に招かれ来道したのを機に、北海道部会を再開した(婦人新報 昭23・11)。
戦後新しく結成された女性団体はまず働く婦人の会で、二十年十一月発足、職業婦人、専業主婦の区別なく、婦人解放をめざして身近な生活問題から勉強しはじめた。翌年一月六日、柄沢とし子の司会で各政党の婦人政策批判会を開いた。参加者は三五人(道新 昭21・1・8)であった。この後女性の初の参政権については、「夫の意志に沿うのではなく」自主的に行使するよう、大通公園でよびかけたり、小樽や余市でも演説した(北の女性史)。
次に新日本婦人同盟(昭20・11結成、昭25婦人有権者同盟と改称)札幌支部が、二十一年二月三日結成された。支部長は更科駒緒で、二月九日に東京から市川房枝・原田清子を招き、婦人参政権問題講演会を北海道新聞社と共催した。市川らは翌日まで北海道新聞社の女子従業員や働く婦人の会、女教師との懇談会をもち、前後して道内を遊説した(新日本婦人同盟会報 昭21・4・15)。八月二十二日、同盟の北海道支部連合会が札幌文科専門学院(現在の札幌学院大学、当時は中島公園内の旧拓殖館)で開かれた。本部からは市川房枝・藤田たき、道内からは五支部の代表が集まり、会長は札幌、副会長は函館・網走の支部長をあてるが、連合会としては合同の運動より支部同士の連絡を主とする方針を決めた。引き続き札幌支部は市川会長と藤田常任の講演会、東京から飛行機でかけつけたCIEの婦人情報課長ウィード中尉の「民主的団体の運営」講習会の後、懇談会を開いた(婦人有権者 昭21・10・15)。また札幌支部は二十二年三月一日、各党代表の討論会を開催した。四月の各種選挙に向けて女性の政治意識の向上をはかろうとしたのである(道新 昭21・2・26、札幌婦協 昭46・5・20)。さらに二十三年二月二十八日、札幌家事審判所と市社会教育課の後援で家事審判法の講演会を開催し、二〇〇人と盛会だった(婦人有権者 昭23・3・1)。
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写真-10 新日本婦人同盟北海道支部連合会 前列左3人目から更科,市川,ウィード,藤田(昭21.8.23) |
社会党婦人部の外郭団体として二十一年七月二十日、女性文化の会が発足した。入会者は八〇人、水島ヒサも講師となって政治講座を始めた(わが道わがたたかい)。また社会党の代議士正木清の夫人ミツの元で、婦人働く友の会が二十二年三月二十日に誕生した。
大学婦人協会札幌支部は二十二年二月十六日、全国六番目の支部として発会した(昭22事務)。前年秋からCIE部員ヘッケンドルフや高級副官の夫人、道庁幹部夫人らが協力して協会設立の説明を開き、上田歓子や庁立札幌高女に長く勤務した安芸左代らによびかけた結果であった。東京の組織結成後、女子高等師範など教養課程のある八校の卒業生に限定されて会員はいったん減少するが、女子教育向上のためには、まず女子専門学校が大学設置基準に達するよう努力することをめざし、二十七年から道内大学進学の女子学生に奨学金の支給を始めた(大学婦人協会史)。
北海道結核予防婦人会は二十二年九月二日、全国的にも早い発足である。会長は水島ヒサ(道新 昭22・9・3)、背景として二十四年の結核による死亡率は、札幌が全国一であった(道新 昭24・5・15)。道庁西野衛生部長の熱心な要請をうけ、全道に支部を作るのにまず本部をと、北海道立札幌保健所で結成された。女医・保健婦・主婦などの会員が、母子健診や無料地域健診、予防・早期発見・治療の啓蒙にデパートで公衆衛生展・乳幼児相談・募金活動、困窮患者の慰問など精力的に取り組み始めた(北海道の結核)。