[解説]

寛保二年十一月堤防工事嘆願口上書
小諸市古文書調査室 斉藤洋一

 鹿曲川(かくまがわ)は、蓼科山のふもとから発し、北流して現東御市島川原で千曲川に合流する、延長二七・五キロメートルの川である(『長野県の地名』)。その中途、鹿曲川左岸に鹿曲川に平行するように中山道望月宿(現佐久市)が存在した。望月宿は戸時代を通じて小諸藩領である。
 その望月宿へ江戸方面から行く場合、寛保二年以前は瓜生坂を越えて下って行くと望月新町に出る。望月新町の家並は、下り坂から始まり、右折して鹿曲川に平行して存在した。その家並がほぼ終わったところで左折し鹿曲川に下ると橋があり、その橋を渡った先が望月宿であった。つまり、望月宿望月新町は大部分が鹿曲川の両岸に、鹿曲川と平行して存在していた。
 寛保二年一一月の「堤防工事嘆願口上書」からは、八月一日に鹿曲川洪水を起こし、望月宿北側の伝馬役屋敷二〇軒、そのほか裏家・土蔵・木部屋・物置・厩などが残らず流されたことがわかる。他方、寛保三年三月の「復旧方懇願書」からは、望月新町の住宅四七軒、そのほか土蔵・長屋などが流されたことがわかる(後述するように七軒はつぶれ)。つまり、望月宿では鹿曲川側の住宅などが流され、望月新町では鹿曲川に平行した住宅がほとんど流されたことになる。このことから鹿曲川右岸の被害が大きかったことがわかる。
 寛保二年一一月の「宿の堤防工事嘆願書」は、望月宿から幕府道中奉行所へ、流失をまぬがれた家の軒下が鹿曲川の「川筋」になっていて、住居できず難儀している、ぜひ堤防工事をしてほしいと願ったものである。これによれば、鹿曲川の流れが望月宿寄りに変わり、「少々の出水」でも危険になったことがうかがわれる。
 寛保三年二月の「宿の堤防工事嘆願書」は、望月宿から被災地の見分に来た幕府役人へ、田地もおびただしく流され、田地のための堤防工事をお願いしたが、望月宿は中山道の宿場であるから、宿場としての役目がはたせなければ宿場としてのかいがない、宿場としてやってゆけるよう、宿場優先の堤防工事をお願いしたいと願ったものである。宿場住民が、宿場としての務めを優先していたことがうかがわれる。
 寛保三年二月の「宿場引き移し嘆願書」は、望月宿から見分役人へ、堤防工事をお願いしたが、今後も水難を受ける恐れがあるので、現在地から「上の段」という鹿曲川から離れた場所へ移転したい、そうすれば今後水害を受ける恐れはないと思われる、ついてはその費用を拝借したいと願ったものである。望月宿住民が、より安全な場所(鹿曲川から離れた高台)への移転を希望していたことがわかるが、この移転は実現しなかった。
 寛保三年三月の「復旧方懇願書」は、望月新町から幕府道中奉行所へ、望月新町望月宿と川を隔てていることから「別高」(別村)になっているが、望月宿に橋一つでつながっているので望月宿の「加宿同然」に役目をはたしてきた、ついては望月新町が今後も存続できるよう堤防工事をお願いしたいと願ったものである。この史料から望月新町が壊滅的な被害を受けたことがわかる。
 ところで、この願いが認められたかどうかはこの史料からはわからないが、この後望月新町は、橋を渡った先の望月宿に接続した場所へ移転している。より安全な場所を願って移転したものと思われる。また、望月宿への往還道も、鹿曲川の上流側へ移動している。
 ちなみに、大森久芳家には望月宿望月新町の被災絵図も所蔵されている。それを見ると、どの家が被害を受けたかすべてわかる。また、望月新町では、五八軒のうち七軒がつぶれ、四〇軒が流失し、残った家は一一軒だったこともわかる。