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村井まで1里半、南北8町ほどの道路です。民家が多く、宿場の入口に唐松の大樹が2株あります。南東の方角(巽の方)に1町ほど列をなして松が茂り、朱色の鳥居をこえると稲荷の祠があります。郷原の産上神です。
郷福寺は、桔梗山白馬院と号し、真言宗京知恩院に属します。本堂本尊は大日如来、観音堂の正観音は、聖徳太子の作といい、信州百番のうち28番の札所です。薬師堂・聖天堂・山門・惣門などは焼失して仮殿になっています。
「野を横に馬ひきむけよほとゝきす はせを(芭蕉)」という句碑があります。
原新田村の入口に分れ道があり、石標に、「右京いせ道、左伊奈諏訪道」と書かれています。松本の方から来る人の分かれる場所です。上方のほうから善光寺へ参詣する多くの人は、中山道妻籠(つまご)宿の橋場より右へ入り、飯田の城下へむかい、甲州(山梨県)の元善光寺へ参詣し、そこから塩尻宿へ出て、この道へ来ています(塩尻からここまで2里)。ここに神明宮の森があり、祠の右脇に立石があります。
桔梗が原は、四方の山が遠くにある平原の地で、今は田んぼがひろがり空地はみえません。この辺の河原で、矢の根石(黒曜石を削ってつくった先人の石器)を捨う事があり、雨の後などに多いといいます。ほかの地でもありますが、この桔梗が原のものは上品とされています。
(注)郷原宿は、慶長19年(1614)に松本城主小笠原秀政が、中山道洗馬宿と北国街道を結ぶために、北国脇往還を整備したときに設定した宿場の一つで、洗馬宿と村井宿の中間にあります。慶長19年5月当時の総家数は23軒でした。幕末の安政2年(1855)に72軒・236人となっています。桔梗ケ原に位置して地下水の低い郷原宿では、飲用水確保のために深井戸を堀り共同で管理してきました。深さが20メートルもある深井戸の場所は、下問屋南・郷福寺入口・お茶屋付近の3ケ所です。
郷福寺には、明治13年(1880)6月25日に、明治天皇巡幸のさいに御小休の石碑が建っています。本堂南側に、高さ63センチメートルの自然石に刻んだ芭蕉の句碑があります。碑面上部に芭蕉翁とあり、芭蕉の「奥の細道」のなかの句が刻まれています。碑陰に「安永四(一七七五)未十月十二日 連中五尺庵露白」とあり、当地の江戸時代の俳人で菅江真澄とも親交のあった俳人青柳露白の建立したもので、当地方の芭蕉の句碑としては古いものです。