○埴科郡坂木

   55右  
 坂木からは上田へ3里8丁あります。坂木は、榊(注1)、坂城(注2)とも書きます。9町ほどの間が、にぎやかな町通りです。昔は葛尾城の城下であったといいます。坂木の郷は、南条・中条・北条と分れており、南条は今、鼠宿(注3)といい、中条は今の中ノ条(注4)、北条は坂木(注5)宿です。
 
坂城神社
 葛尾古城山の麓にあり、村上氏がいたころはその城内であったといわれています。祭神大己貴命・事代主命、健南方命を祀っています、社伝ははっきりしませんが、12代景行天皇の世に勧請したと伝えられています。
 東方の野原に飯炊平という所があります。日本武尊が信濃国を通ったとき、吉備武彦がここで飯炊きをしたと伝えられています。
 このあたりに御射山明神という祠があり、坂城神社に属します。神社領は、村上家が支配したころ、300貫文、神主は小宮山和泉守兼武でした。その後、甲州領となり、永禄11年に武田家から7貫文の地を賜りました。
 


(注1)加賀百万石前田氏が宿泊したとき、縁起を担いでか「榊宿」と記されたこともありました。
(注2)現在は坂城と表示します。
(注3)鼠宿村は江戸時代、松代領でした。
(注4)中之条村の中央、北国往還から30メートル程西に入ったところに、幕府の中之条代官所が置かれていました。
(注5)江戸時代を通して、坂木村は幕府領でした。
 
 
   59左  
鼠村は鼠宿ともいいます。
 5、6町ほどの間がにぎやかな町通りです。このあたりは、急峻な岩山が天に向かって立ち、左(注1)は千曲川の急流が、矢のように流れています。会地の関の跡だといわれています。地名考では、その跡はわからないといいます。しかし、たずねてみると会地早雄神社と呼ばれているお宮がありました。会地早雄神社は国史には見あたりません。神社には、閑院宮御祈願所であったという1枚の摺物がありましたので、次に紹介します。
    鼠大明神鎮座由来会地の関の記
   みすずかる信濃の国に会地の関というところがある。東には峨々たる岩山がそびえ、西には緑濃く松樹が茂り、高く募り出している。麓には千曲の流れがみなぎって北越地方に流れている。埴科・更級・小県の3郡が結び合う地で吾妻から越後に通ずる道が続き、行きも帰りも、知るも知らぬも逢う地なので、会地の関という。むかし、日本武尊が東夷征伐のときに、この地で夜を迎え、大伴の健日連公に命じて、草を刈りはらい、仮の宮を造り泊まった。夜は月が明るく、東に嶮しい厳石が覆っているのを寝ずに見ん(注2)との御詞があり、自身で御幣を立て、大己貴命を勧請し、鼠大明神をあがめまつった。これによって、鼠さえ物をそこなうという災いを鎮め、そのうえに蚕養を守った。
 〔中略〕熊野権現がこの会地に出現し、出速男神ともいう。したがって、会地早雄神社と称し、4座の神がこの殿にいる。
 この会地の関は昔から言い伝えられた名所で、いろいろな書に紹介されていますが、いつのころからか、なおざりにされるようになりました。そこで、今回は多くの人にこの名所を知ってもらうために上梓しました。
 
岩鼻
 和合の城山の麓で、とりさえも飛べないような険阻なところです。崩れ落ちそうな大岩には苔がむし、10間から15件あるいは2間から3間ほどの岩が数多く落ち重なり、また山を成しています。その際をつたい歩きして、下塩尻・上塩尻・秋和(注3)などの村々を通過、上田の城下に入ります。
 城下の入り口の新町(注4)から右へ入り、千曲橋を渡ると中之条です。神畑・小島・保野・舞田・八木澤の5か村を過ぎ、別所村(注5)へ入ります。ここでは、七久里温泉・男神岳・女神岳・三楽四院などが見どころです。
 


(注1)善光寺方面から鼠村へ向かうと千曲川北国往還の右側になります。
(注2)鼠の地名は「不寝見(ねずみ)」で、狼煙台があったところと考えられています。むかし、大鼠が「岩鼻」を食いちぎり、上田の平ができました。そのとき千曲川が一気に流れ出し、急峻な岩鼻の険をつくった、というお話があります。
(注3)この三村のほか、上田城下までの村々は、現在はすべて上田市となっています。
(注4)『名所図会』が書かれたころ、新町上田藩塩尻組、現在は上田市常磐城です。
(注5)現在の上田別所温泉です。